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2011年10月31日 (月)

ダッコの冬支度

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寒くなるのでダッコに、ちゃんちゃんこ、敷物、毛布などいろいろ買い足した。
大好きな15歳以上用のとろとろの缶詰もたくさん買った。24歳だけれど。
どこにしてくれるか判らないからペットシーツもたくさん補充。

ちゃんちゃんこが届いた日、ダッコに着せたら喜んだ。
カメラを構えるといつものようにポーズをとった。
次の日に脚が立たなくなっていた。ペットシーツは不要になった。

思いきり可愛がってやろうと思う。
オシメして寝ているだけのダッコは赤ちゃんみたいで愛しい。
もう噛まないだろうし  今夜から布団に入れて抱いて寝よう。

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2011年10月29日 (土)

『トラ吉』追悼週間(一周忌)No.6“桜の木のそばに眠る”

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逝った日、私は静かにトラ吉と過ごしていた。彼の息子や娘たちは、トラ吉が逝っても彼のためにエサを残し続けた。家の中に運び入れていたのでトラ吉が帰ってくると思っていたのかもしれない。重態のときからかれらは父親の死期が近いことを理解していたように思うが、曖昧なままでは戸惑うかもしれないと考えた。私は午後、トラ吉の亡骸を抱えて芝生の上に置いた。ちょうど庭の中ほどあたりに眠ったトラ吉をそっと寝かせた。

息子や娘たちはわかっているのかいないのか、ほとんどの猫が近づこうとしなかった。トラ美だったか一匹が近づいて匂いを嗅ぐと、すぐさま離れた。死んでいると確認したことだろう。子供たちは遠巻きにしていたが、やがてみんなどこかへ行ってしまった。猫には喪失を悲しむ感情があるのだろうか。みんな悲しそうには見えなかったが本心は人間にはわからない。小太郎は、やけに張り切っているように見えた。あとを継ぐのは自分だと、早くも気負っていたのかもしれない。庭の真ん中で眠るトラ吉は心地いい秋風に吹かれ、弱い太陽を受けて気持ちよさそうだった。この庭に現れてから十数年、彼にすればじぃじぃの庭ではなく、‘俺様の庭’であった。

夕方、また家の中に戻して寝かせ、何度か般若心経をあげた。私の悲しみは和らぎつつあった。じぃじぃも帰ってきたとき数秒間ほど嗅いでいたが、すぐにそばを離れた。動物は「死」を予感するのも早く、確認したときにも人間のような感情は挟まないように思う。問いただすことが出来ないので何とも言えないが、猫に関していえば忘却するのがとても速いと言われている。矢のように過ぎる時間を、その日一日の食べる心配をするのが野に生きる動物の本能だ。野良猫も然り。グループのオスは次のことを考えなければならないし、メスたちもいつもとおなじ一日を送ることに専念する。

夜、最後の夜をともに過ごした。トラ吉のそばで原稿の最終チェックを始めた。翌日は締め切りの日だった。文章が走っていない。よけいなことばかり書いている。間際になってアラばかりが目に付いた。しかしもう手直しをする時期ではなく、久々に書けた小説が完成できたことにのみ満足しようと自分を納得させた。翌29日、起きてすぐ送信での投稿に取り掛かった。ワードのままの添付では駄目だったかと説明を読みなおし、指定のファイル形式でようやく投稿できた。さて、トラ吉の埋葬だ。埋める場所は決まっていた。裏庭の桜の木のそばと決めていた。そこ以外に考えられなかった。

スコップを物置から取り出し、長靴をはいた。裏庭へ行き、穴を掘り始めた。身体が大きいので大きな穴が必要だった。深さも50センチ以上は掘ったほうがいい。掘っては土を横に盛り上げ、額には汗がうかび、こめかみから流れてくる。私は休むこともなくトラ吉のために掘りつづけた。ようやくトラ吉が眠れるスペースが掘れたとき、トラ吉を抱えてきた。箱もタオルも無い身体ひとつの状態で穴の底に寝かせ、摘んだ花をその上に載せた。それから般若心経をコピーした紙を顔のあたりにかぶせた。エサと線香を脇へ置き、ごめんよと言ってから土をかけた。最も早く土に戻れるように埋葬した。そのあとはレンガで埋めた場所を囲い、ひとつのレンガを立てて置き、墓石にした。その石の前にドライフードを置き、庭の花を立ててあげた。合掌をして埋葬が終わった。

次の春、トラ吉は、きれいな桜を咲かせてくれることだろう。そばにある紅葉して葉を落とし始めた桜の木を私は眺めていた。そして今春、私の桜はみごとな花を咲かせた。これはトラ吉がきっと咲かせてくれたのだ。枝を広げ、花をたくさんつけた桜の木を感慨深くながめていた春だった。トラ吉は土に還り、花となった。

画像は2010年4月18日撮影。(修整なし)丸々と太り、穏やかな表情をしている。この半年後に別れが来た。しかし私が生きている間、忘れられない猫の一匹として心のなかに生き続ける。

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2011年10月28日 (金)

『トラ吉』追悼週間(一周忌)No.5“永眠”

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トラ吉は昨年の10月27日、いつものように先頭でエサをねだったが、その声は哀れなほど弱々しかった。ほかの猫たちとは別に缶詰を与えた。弱ってきたときから彼には存分においしいフードを与えていた。けれどもおいしそうに食べていたのは何日くらいだったろうか。この日はそのフードにも少しだけ口をつけると水を飲み、寝床へ戻った。中をのぞくとぐったりとして目を閉じていた。いよいよかもしれない。ここ一日か二日が限度だろうと思えた。動物は食べなくなれば長くない。

前日の夕方にトラ吉の姿が見えなくなり、さては死に場所を求めてここを去ったのかもしれないと思い寂しく感じたが、それも彼の選択なら仕方がないと考えた。そう思っていると夜に帰ってきた。寒波の影響で気温は低く、弱った体で外にいるのは死期を早めると心配していたところ安心した。しかしトラ吉は温かい牛乳と缶詰のフードを少しばかり摂ったあと再び居なくなった。私は暗い中を「トラ吉~、トラ吉~」と呼びながら、懐中電灯を手に右近案の敷地内をくまなく探し歩いた。縁の下を照らしたとき、その姿を見つけた。トラ吉は音を立てて苦しそうに排泄していた。

あまりやかましく言わないほうがいいと思い、私はいったんその場を離れた。やがてトラ吉は縁の下から出てきた。私はコンクリートの縁台で待っていた。名前を呼ぶと弱々しく鳴く。私はたまらなくなり、そこに正座をすると身を乗りだして大きな身体を抱き上げ、膝に乗せた。私の膝の上でトラ吉は目を閉じてうれしそうな顔をした。頭やら背中やら、どこもかしこも撫でてやった。それは恐らく彼にとって、初めて人間の膝に乗った日であっただろう。人を寄せつけない生粋の野良猫が人間の膝に乗る。それは私への最後のプレゼントだったのだろうか。最初で最後の人間の膝を知ったトラ吉は、やはり居心地がよくなかったのか膝から降りて寝床へ入った。

やせ細り、腹ばかり大きなトラ吉は、もう首を持ち上げる力もないほど衰弱して横たわっていた。家の中に入れ、エサを置いてもみたが、寒くても外がいいのか出て行って寝床にもどる。朝まで持たないかもしれない。そんな不安がよぎるけれど、私は書かなければならなかった。どうすればいいのか。一生懸命に考えた。そして思いついた。家の中に入ってくれないなら、硝子戸を開けてそばに居てやればいいのだ。私は折り畳み式の小さなテーブルを持ちだして広げ、ノートパソコンを置いた。CDプレイヤーも持ってきて、トラ吉のために心が休まる静かな音楽を流しつづけた。トラ吉は音楽に反応し、心地よさそうに聴いていた。

折しも寒波の襲来で厳しい冷え込みの夜だった。けれど私は戸を開けてトラ吉から私が、私からトラ吉が見える接近した場所で小説のラストに取りかかった。外にもライトを置いて様子を見てはときどき声をかけ、歌ってやった。即興でつくった歌は「トラトラトラトラ トラッキー、トラッキーは強い猫~♪トラッキーはいい子だね~♪」というような歌だった。彼はそれも聴いていた。夜中になって寒さは一段と厳しくなった。ふれてみると、トラ吉の身体は冷えきっていた。これはいけないと思い、眠ったように見えるトラ吉を箱ごと家の中に運び入れた。身体を温めるために下に小型電気カーペット敷き、その上に箱を置いた。もう外へ出て行く元気はなかった。トラ吉は目を閉じてじっとしていた。息はしているかと何度も確認してみた。

私は懸命に書いた。小説は最初と最後がとても大切なことは言うまでもない。最後でしくじれば読者の期待を裏切ってしまう。一応は考えていたとおりにラストまで書きすすめた小説は、午前三時を過ぎたころに完成した。出来たときトラ吉に声をかけた。出来たよ、トラ吉。おまえのお陰だよ、ありがとう。書かせたくて頑張ってくれたんだろ。ありがとうね。完成前に死んじゃったら、泣いて書けないだろうって?おまえ、どうしてわかるんだ?そんなことを喋りながら、トラ吉と私は忘れられない時間を共有していた。その夜は他の猫たちは一匹もいなかった。じぃじぃさえも帰らず、もしかしたら猫たちはみんな知っていたのだろうかと後で考えた。

書き上がれば存分にトラ吉と話ができ、身体を撫でてやることができた。ますます冷え込んできたが、ふしぎに寒さは感じなかった。やがて外がしだいに白んできた。夜明けが近い。トラ吉は頑張っている。もう意識がないのかもしれない。苦しげに弱々しい呼吸をしている。私は泣いていなかった。彼を撫でながらトラ吉賛歌を即興でいくつも歌うことに忙しかった。寒くもなく、悲しくもなかった。私はトラ吉に微笑んでいたように記憶する。

庭が明るくなってきた。さすがに私も疲れてきた。こんなときにも人は眠くなる。そのことを憎んだ。しかし睡魔は襲い続け、さらに疲労感も急激に襲ってきた。私が倒れたら駄目だ。ここはすこしでも眠ったほうがいい。そう判断し、着替えてトラ吉を撫で、がんばれよと力づけた。居間のベッドに疲れた身を横たえようとしたとき、いきなり大きな鳴き声がした。トラ吉が鳴いたのだ。もう声もでないほどに弱っていたのに、力強い声でひと声鳴いたのだ。最期のときかと思い、走り寄って様子を見た。トラ吉は私を見ていた。見えていたのかいないのか、とにかく見ていた。どうした?しんどいね。つらいね。大丈夫だよ、トラ吉。

いくつかの言葉で励まし、少しだけ睡眠をとるためにまたベッドにもどった。するとまた大きな声がした。それは声というより叫びといった方がよい声だった。またあわてて駆け寄り声をかけた。そばに行くとトラ吉はわかるのか落ち着いて鳴きも叫びもしない。わかったよ。もう眠らなくていい。一日くらい寝なくたって平気だ。そんなこと、今まで何度もあったから。こう言ってやると目を細めた。そして水を飲み、また横たわった。しかし突然に前脚を立てて起き上がり、トラ吉は全身を突っ張って反り返り、天を仰いだ。そしてゆっくりと伏せた。2010年10月28日 午前6時30分 トラ吉永眠。

薄く開いた目を閉じてやり、顔を押しつけた前脚は、折った状態で硬直しないよう横向きに身体の向きを変えてやった。よく頑張ったね、トラ吉。おまえ凄い奴だな。こんなカッコイイ往生をする奴だったのか。恐れ入ったよ。さすがボスだ。おまえ立派すぎるボスだったね。そのとき涙があふれ出た。あんなに人から逃げる猫だったのに、私の膝に乗ってくれたこと、最後の最期まで私に看取れと声をふりしぼって訴えたこと、いつもドラ声でエサをくれと鳴いていた姿、じぃじぃや小太郎をいじめて私に「コラッ!」と追っ払われ、水を撒かれて一目散に逃げる姿、堂々と町内を闊歩して「俺様は野良猫だ」と誇り高かった元気な姿などなど。あふれる思い出と、最後に私に心をひらいてくれたことへの感謝に涙がとまらなくなりしばらく泣いた。

気がすむまで泣いたあと、すこし眠った。昼ごろに起きたとき、トラ吉の身体は冷たく固かった。長い間ともに暮らした人の最期は看取れなかったけれど、この猫の最期は看取ることができた。そんなことを考えながら通夜の準備をした。トラ吉は横向きにただ寝ているように見えた。しかしもう二度とあのドラ声で鳴くことはないのだ。そう思った瞬間にまた込み上げる。けれどもこれで苦痛から解放されたのだと思えば救われた。今は私が愛した多くの猫たちと、喧嘩したり遊んだりしているのだと思うと安らいだ。トラ吉大往生。推定12歳。みごとな野良猫の生涯だった。私に看取らせてくれてありがとう。

好きなエサと大好きだったこの庭に咲いた花を供えて通夜をした。弔問客は猫たちのほか誰もいない。存分に別れを惜しむことができた。トラ吉は安らかな寝顔で眠っていた。合掌。  (2010年10月28日撮影)

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2011年10月27日 (木)

『トラ吉』追悼週間(一周忌)No.4“最後の元気な姿”

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トラ吉の姿を求めて写真フォルダを探しました。これが元気なときの最後の写真となりました。2010年5月26日撮影です。この5カ月後に彼は逝きました。元気そうな彼の姿から、そんなに早く別れが来るとは思いもよりませんでした。

エサをやるときとは異なり、違うところから出てくると、眠っていてもすぐに起きて逃げる用意をします。しかし、ここまで近づけたのは嬉しいことでした。私と判ったようでした。

私はこの追悼記を書き始めてから、毎日トラ吉の思い出に浸っています。命日まであと数時間。昨年の今頃、明け方に息を引き取ることは分からず、懸命に看病していました。そのそばで私は書いていました。

昨夜、思い出すままに書いた文章を掲載します。記録のような文体はそのままでの掲載です。

昨年の5月末にふらりと帰ってきたトラ吉は、夏の間に一度も姿を見せなかった。私はとても体調が悪かったが、エサやりだけは欠かさず続けた。梅雨とそれに続く夏の間、トラ吉はどこへ行っていたのかわからない。久しぶりに帰ってきたトラ吉に異変を感じた。痩せていたのだ。ポンポンといつも叩いた背中には背骨が浮き出ていた。しばらく放浪していたので、ろくなものを食べていなかったのだろうと私は思った。食欲は落ちていなかったので、すぐに太るだろうと思っていた。いつものように背中をポンポン叩く気にはなれなかった。エサを食べたらどこかへ行くのはこれまでと同じだった。そしてまたやってくる。娘や息子たちは食事時間がわかっており、決まった時間に集まって待っているのだが、トラ吉はそんなことおかまいなしに突然に現れる。例によって大きな声で「エサくれぇ~、エサくれぇ~」と鳴くのである。夜中とか明け方とか、普通の家ならとうてい何も出てこない時間でもエサが出てくる。右近庵は彼にとってまったく好都合な餌ステーションだったにちがいない。

いも掘りの頃、異変はさらに目を見張るものとなっていた。前庭にいた私は驚いた。のっしのっしと歩いてくるトラ吉の腹部が、両側にこぼれるように異様なふくらみを見せていたのだ。どうしよう。考えた。病院へ連れて行こうか、それとも・・。ひとめ見て思ったのだ。これは助からないだろう。歩くのも大儀なほどに膨張した腹部に何が起きているのだろうか。腫瘍?単なる腹水?それなら抜けば回復できるかもしれない。だが彼は名誉ある生粋の野良猫である。もうひとり誰かの手を借りれば、食べている最中にネットでもかぶせて捕まえ、箱に入れてしまうことは不可能ではないと思われた。しかし大変な驚きで暴れ、抵抗するだろう。そして今まで見たこともない動物病院へ連れて行かれ、触られたこともない人間の手によって何をされるかわからない彼はただ脅えて全身で抵抗し、ありったけのエネルギーを使い果たしてしまうことだろう。そんな目にあわせたとて必ずしも助かるとは限らない。手術となれば大ごとで、入院生活は彼にとって地獄だろう。短時間に私の頭の中で様々なことが巡りつづけた。

決断するのにそれほど時間はかからなかった。野良猫は野良猫の誇りをもった生き方を貫かせてやろう。しかし私はこの庭で、彼のためにどんなこともしてやろう。往くならば、その瞬間まで見届けてやろう。そう決めたのだ。それから寝床を温かくし、若い猫たちよりもトラ吉を優先的にそこで眠らせた。歩くのも重そうな大きな腹でも彼はときどきどこかへ行った。けれどもかならず帰ってくるようになった。エサも先頭で鳴いて要求した。食べる量は減ってきた。少し食べたら寝床へ入って目を閉じていた。もう死期を悟っていたのだろう。そのように見えた。

かれの子供たちに変化が見られた。父親が病気であることを成人した子供たちはみんなわかっていた。トラ美はみんなが一斉にトレーのエサを食べはじめても、ひとり段の下にすわって見ていた。小春は早々に食べ終えて離れ、あの大食いの小太郎でさえも、そこそこ食べれば立ち去っていった。トラ江はよくわからなかったかもしれない。父親のそばで食べていた。みんなトラ吉の弱り様を気遣い、彼にたくさん食べさせようとしていたのだ。

このきょうだいは、さらに驚きの行動をした。トラ吉がいない時にエサを与えたときのことだった。いつも通り喜んで食べ始めた。私は家の中にもどっていたが、しばらくして見に行った。なんとエサがトレーに残されていたのだ。それもけっこうな量で、トラ吉がいつも食べる場所あたりに残っていたのだ。いま居なくてもエサを残していた子供たちの親を想う気持ちにしばし感動を覚え、私はそこにたたずんでいた。動物は偉い。言葉で何かを教わるわけではないが、親子の情や、病む者を想う気持ちを身につけているのだ。

猫の病気を調べてみると、腫瘍が腸あたりに出来ている可能性が高かった。病気はかなり進行し、腹水が溜まりに溜まった状態だと思われた。辛そうなので、それを抜くだけでもと再び病院へ行くことを考えた。さらに弱り、連れ出すことはたやすいことに思えた。しかし私はしなかった。後でこのことを後悔するかもしれないと何度も逡巡したが、今の彼には安らぎを与えてやることが最もいいと判断した。食欲は落ちてきた。食べるとすぐに水溶便が出てつらそうだった。ちゃんと寝床を出て縁の下や草むらでする。可哀想だった。けれど動物は苦しいとも言わずに堪えている。

昨年、10月になった頃、私はようやくベッドを離れて回復へと向かいつつあった。やっと自分で食事を作れるようにもなっていた。それで小説を書いていたのだ。1~2週間で仕上げて投稿するつもりで『指』という小説を書いているところだった。既定の50枚までラスト数枚を残すばかりにまで書き上がっていた。そこへトラ吉が病んで帰ってきた。しかも重病で。その短編は復帰第一作目となるのでそれなりに力を入れて書いていたが、トラ吉がいつ危篤になるかもしれないと24時間そこから心が離れない。しかも締め切りは迫っていた。小説はあきらめようか。それは可能なことだった。久々の執筆で苦戦もしていた。投げ出すことはたやすかった。しかし私は決めた。世話もする。そして書く。トラ吉のそばで書き、そして看取る。私はそう決断した。それはトラ吉が書けと言っているような気がしたからだ。

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2011年10月26日 (水)

『トラ吉』追悼週間 (一周忌)No.3“押し合いへしあい”

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押し合いへし合いのご飯タイムです。
私が起きるのは昼ごろ。もう猫たちは腹ペコでスタンバイ。どこに居ても同じなのに、なぜか戸が開く場所を皆がねらう。だれも抱っこさせてくれないくせに、一番にエサに近づこうとするのは本能なのかな。戸が開くとドッと中へ入ってくることもたびたびで、サッシのレールもフローリングの床も、そのあたりはいつも土や砂でザラザラしていました。

これは2009年7月4日撮影。左からトラ吉、末っ子のトラ江、小太郎、この時はちょっと出遅れたのかこの場所で、しかもとても不利な苦しい姿勢。そしてトラ美、彼女も美貌が台無しで小春姉に乗っかられています。この時すでのトラ子ママも小トラ姉も庭を去っていたので、この顔ぶれが通常のメンバーです。しかし親父トラ吉は、来る時は毎日やってくるのですが、突然来なくなれば何カ月も姿を見せないことは珍しいことではありません。オス猫として子孫をふやすべく遠征に出ると長期間まったく来ませんでした。それでもいつか必ず帰ってくる。そんな十数年でした。

いつも不思議に思っていることがありました。身を乗り出してエサを置いたあと、警戒心の強いトラ美以外はみんな食べるのに夢中で、“背中ポンポン”か“背中ナデナデ”をさせてくれるのに、庭へ降りようとしたり、別の所から庭へ出て作業しようとしたら、猫たちは逃げてしまうのです。私だとわからないのでしょうか。みんなの名前を声を出して呼び、私だと認識させようとするのですが、とにかく逃げます。トラ吉は馴れてきてから悪い目つきで用心しながら私をチラチラ見ては食べ続けます。そうすると全部ひとりで平らげてしまうので、食事中は庭に出ないようにしました。身を乗り出す私と、他のところから現れる私は別人なのかな。

トラ吉が来ないときは、一番左のリーダーの位置で小太郎が大きな声で鳴いて要求します。父のすることを真似ているのですね。いずれ自分はこの庭のリーダーにと思っていたのでしょう。トラ吉はいつしかじぃじぃを苛めなくなっていました。ここの‘ぼんぼん’だと認識できたのでしょうか。じぃじぃも自分が力不足で統治をトラ吉に任せていることは仕方がないと思っているようでした。人畜無害と判断されてから、やっつけられなくなったので安心しました。小太郎はそれなりに根性があり、親父にやられてもやられても、すぐにそばに近寄り、一緒にご飯を食べるのでした。ふつう、あんなにコテンパンにやられると出ていくことが多いのですが、そこは親子だからなのか、小太郎が幼く食い気だけのような猫だったからかモメながらでも居たのでしょう。

いま気になっていることは、トラ吉のとなりのトラ江のことです。この数日間まったく来ません。体は小さく弱く、すぐに具合が悪くなります。こんなに来なかったことはなかったのでとても心配です。ほかにいいスポンサーがいて、暖かい所にいるなら安心ですが、チョット心配。いえ、そうとう心配。小太郎が去ってから、トラ美がリーダーシップをとろうとしていたようで、ときどきトラ江の叫び声が聞こえました。小春には姉なのでちょっかい出しませんが、トラ江は妹なので、トラ美にいじめられたようです。食事もそこそこに走り去ってどこかへ行ってしまうようになったのは小太郎が居なくなってからのこと。それ以来、ひとりでどこからか御飯タイムではなく不規則にエサを食べに来てはいたのですが・・。心配です。

この猫の口がパパに似て黒いのです。この画像ではそれがわかります。トラ江やぁい。どこに居るんだい?食べているかい?寒くないかい?トラ美姉に悩んでたのかい?それならトラ美より君を救いたい。だって彼女は狩の名人。ハト、スズメ、ヘビ、モグラ、ノネズミ、虫なんでも。いつだって獲って遊んで食べているもの。君こそずっと保護したいのに。とにかく早く帰っておいで。カラダ弱いもの同士、仲良くしようよ。パパだってきっと心配してるよ。聞こえたか?ね、トラ江。早くおいで。おまえの好きな缶詰いっぱい買ってあるよ。

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2011年10月25日 (火)

『トラ吉』追悼週間(一周忌)No.2“大家族のエサたいむ”

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これはトラ吉ファミリーの食事風景です。最も大所帯のときで8匹の家族です。
トラ子が仔猫4匹をどこかで産み、連れてくるようになりました。4匹のチビちゃんたちに私が狂喜したことは想像に難くないと思います。乱舞はしなかったと思いますが、かなりの興奮でした。チビちゃんたちが危険な旅をし、やっとたどり着いた場所が右近庵でした。両親が安全と判断したこの庭に、エサ場デビューをしたのです。

しかし一見して固いドライフードは赤ちゃん用でもまだ無理に見えました。だってトラ子ママのおっぱいを、しきりに飲んでいたくらいです。缶のフードは味が濃い。そこで考えました。ミルク粥ならいいんじゃないだろうか。私はご飯に牛乳を入れてお粥を炊きました。冷まして与えてみると、これが気に入ったようでご覧のとおりの状態となりました。なんとbabyたちだけでなく、ママもパパも器に顔を突っ込んでいるので、新聞紙を広げて親猫にも与えました。パパとママはドライフードの方が好きじゃないの?

左から、いちばん大きなトラ吉パパ、寄りそうように食べているトラ子ママ、わたしも欲しいなと見ているマダラ模様の小春ちゃん、姉妹の小トラはいつもみんなが食べる間は離れて待っていました。画像の上方に見えているシッポと前足が小とら姉。チビちゃんは4匹でした。いちばん右のbabyは脚しか見えないかもしれません。庭は先住者のはるかちゃんが出没するからか棲みつかず、餌を食べに全員でどこかから通っていました。トラ吉パパは単独行動で、この時は偶然に‘全員集合’したようです。しかし、その後、いちばん小さかったbabyの姿が見られなくなりました。とても残念で悲しかったです。

このファミリーの凄まじい食欲に、たらーっとなって(・.・;)見ているじぃじぃが面白いですね。彼もパーマン帽みたいな頭の黒い部分だけ特別出演。撮ったつもりはなかったけれど写っていました。これを見ると今はずいぶん寂しくなりました。毎日食べに来るのは小春とbabyだったのが成長したトラ美とトラ江だけです。そのトラ江も丈夫でなく、食が細くて小さいです。ここ数日、姿を見せないので心配しています。トラ吉ファミリーが栄えて充実し、幸せだった頃の貴重な一枚です。(2006年7月撮影・Finepix)

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2011年10月24日 (月)

『トラ吉』追悼週間(一周忌)No.1“ちょい悪ネコ親父”

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トラ吉が逝ってまもなく一年になります。これが庭猫たちの親父であるトラ吉です。
ご覧のとおりのドラ猫です。顔に傷アリ。野良猫らしい猫だと思いませんか?

トラ吉が初めて庭に現れたのは2000年前後だったでしょうか。越してきたのは1997年で、早々にいろいろな猫が訪れました。私は猫を見ると狂喜します。とくに野良猫が大好きで、見つけると何とかして餌を与えようとします。私は車にキャットフード、ドッグフードを積んでおり、免許を持っていなかった昔も、出かけるときにはバッグの中にドライフードや竹輪をかならずしのばせていました。いつ、どこで会っても餌をあげられる準備をしていたのです。ところが庭があると猫の方からやってきてくれる。こんなにうれしいことはないと思ったものでした。

トラ吉より先に他の数匹が訪れていました。“猫たちの物語”の『日なたの小春』に登場している猫では、はるかちゃん、ボスクロ、そしてトラ猫たちの母親であるトラ子がいち早く餌場としていました。はるかちゃんとトラ子はその頃から仲が悪く、メス同士で喧嘩ばかりしていました。当時はボスクロが仕切っており、ほかのオスの出入りはほとんど無かったのですが、彼が遠征している間にどこからかオスがやってくることはありました。トラ吉もそんな猫の一匹でした。とても強いボスクロに若造のトラ吉が勝てる訳はなく、留守を見計らって現れていたように思います。

呼ぶと逃げ、最初はトラ子かと思っていましたが、なんだか違う。痩せてはいるけれど、トラ子より大きい猫だったのでオスだと分かりました。背骨が浮き出るほど痩せており、尻尾も貧相でしたが、骨格のしっかりした猫だという印象がありました。そのうち私が置く餌を食べるようになり、ときどき来てはガツガツと食べ、ボスクロに見つからないように急いで帰っていきました。通りがかりのオス猫や、数回は食べに来てもあとは来ない猫もいましたが、トラ吉は此処を都合のいい餌場と決めたようでした。その頃のスリムな若い彼の姿は残念ながら一枚もありません。というのは、そもそも猫や植物を写すのはいつもHiroshiの役割でした。「早く早く!」と呼ぶ私の声にあわててカメラを手に走ってきて写すのは彼でしたが平日は居ないのと、トラ吉は長居ををしないのとで若造時代の写真はありません。

その後、ボスクロはダッコ様に跳びかかって負かそうとしたり(‘野生猫’ダッコ様が勝利しましたが)、息子のじぃじぃを傷めつけて大けがをさせたりで、仕方なく別の場所へ強制転居させました。ボスクロは人間には可愛い猫だったので、とってもつらかったのですが、右近庵の平和維持のため仕方がありませんでした。ボスクロならどこでも生きていく。そう信じていました。だって彼はちょっと台所から離れてもどると、なんとお肉のパックをくわえて引きずりながら運び去るところで、戸の開いている幅より大きなパックを懸命に外へ出そうとしていたのです!静かで、おとなしく、強く、可愛く、人間なんてなんぼのもんじゃい!と私が近づいても逃げもせず、のっしのっしと庭を闊歩する見上げた根性の黒猫でした。

若造トラ吉がボスとなったのは、ボスクロの強制退去を執行した後からでした。大手を振って出入りできるようになったトラ吉の天下は、それ以後10年以上も続きます。ボスクロに‘ほ’の字だったトラ子はサッサと若い亭主に乗り換え、トラトラ夫婦で我が右近庵はトラ猫であふれかえることとなっていきます。しかしこのトラ吉、先輩のはるか姐さんには頭が上がらず、一目おいていましたね。彼女には猫パンチされても目をシバシバして耐えていましたよ。先住者を敬うのは猫の仁義だからです。

これは2009年11月に撮影したものです。約2年前ですね。すっかり貫禄のある堂々としたボスになっていました。口元が黒いのが特徴です。声はほんとうに‘ドラ声’で、やかましいくらい鳴いて餌を要求しました。一族のリーダーとして子どもたちにいつもお手本を見せていたトラ吉です。餌をもらうときはここまで近寄りますが、表情からもわかるように、警戒心をまったく解くわけではありません。彼の目線の先にはおそらく餌があったのでしょう。写真なんかより早くエサをくれぃ。そう言っていたのかもしれません。食べ始めると何をしても気にしないトラ吉のしっかりした背中をポンポンと強めに叩くのが私は大好きでした。好きだったよ、おまえのこと。な、トラ吉よ。ポンポンポン!

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2011年10月17日 (月)

ころんころん中

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小太郎ころんころん中。一瞬こちらを向いてくれたので写せた一枚。(2008.3.12撮影)

しばらく猫たちを掲載していなかった。今月は猫を多くお見せしよう。今月末にはかれらのパパさんであるトラ吉君の一周忌を迎えます。その追悼もかねて彼の遺したトラ一族を存分にお目にかけましょう。

小太郎はオスとして能力の高い方ではなかったので、無事にやっているのか心配です。トラ吉親父が亡くなったからと勢力争いなんてせずに、じぃじぃと共存すればよかったのに。そうもいかないのかな。現在は小春、トラ美、トラ江だけで寂しくなりました。元気でいるか~、小太郎やぁい!おまえ大食いなのに心配だよ。
この写真はHiroshi愛用のFINEPIXで撮影。この頃、私は二台のコンパクトデジカメを併用していた。富士フィルムとニコンのCOOLPIX。FINEPIXが壊れないよう引退していただくためニコンを購入。
気分が塞ぐ日や体調がすぐれない日、猫の写真を見るとしぜんに笑みがこぼれるのがわかる。私はもの心ついた時から猫、猫、猫と猫三昧の生活だった。だからきっと猫は私の一番の特効薬。

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2011年10月15日 (土)

えさタイム

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前回の五匹がエサを食べていることろ。ただしこれは2008年3月12日撮影。
みんな丸々と太っている。冬場に猫は脂肪を蓄え、毛の量もふえて密になる。

みな成長してこの洗面器では小さくなり、その後は平面のトレーに替えた。
3月。この時期はまだ芝が茶色い。右側の猫ハウスには私の古セーターが見える。
(画面のサイズににより見えないかもしれません。)

パソコンには猫と花ばかりが保存されている。すべてがなつかしく、ほほえましい。

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2011年10月12日 (水)

小太郎の姉妹たち

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これは小太郎の姉妹たちです。(2009年8月撮影)
前の二匹が小トラ(左)と小春(右)、先に生まれたお姉ちゃんたちです。この二匹は性格がまったく異なりました。小トラはグループをまとめ、リーダー的役割を果たしていました。小春ちゃんは呑気でマイペース。ぬぅぼぉっとした感じで飄々系です。それは今もおなじです。二匹は父親が違っていると思われ、性格も大きく異なるのかな。

小トラはたまにやってくるトラ吉親父が大好きで尊敬していました。食べるのも遠慮し、親父やきょうだいに先に譲るような子でした。ところがトラ吉が小太郎を追い回して押さえつけ、激しい取っ組み合いになることがふえ、小トラが餌のときに来ないことがふえてきました。争いが嫌だったのか、後継者は自分ではないと早々に身を引いたのか、とうとう来なくなってしまいました。

この子たちの母親はトラ子といいます。子どもを産み続けてやつれてきたのと、それ以上の猫がふえることが近所迷惑になるので、苦労して捕まえて手術を施しました。無事に終えて迎えに行き、子どもたちの待つ庭に放してやると、何とトラ子はサーッと逃げていき、二度とこの庭に現れなくなりました。以来、すでに大きくなった子どもたちだけになりました。トラ子は以前から別の餌場もあったようでその心配はないのですが、勝気だけれど女らしい可愛い猫で大好きだったので残念でした。でも彼女のためには避妊手術をしておいたことはよかったと思います。産み続けることは母体に大きな負担ですからね。もちろん彼女にふれさせてもらったことはありません。さわろうとすると牙をむいて怒りました。またトラ子もいずれお見せしましょう。

後方の三匹はトラ江(中央)、トラ美(右)です。飽きっぽく根性のない小太郎は、もう餌が出てこないと向こうをむいて移動を始めています。姉妹たちは庭のあるじがそこに居れば、まだ何か出てくるかもしれないと待っています。もちろん撮らせてくれたらドライフードがパラパラと撒かれます。この子たちは100パーセントノラなので警戒心が強くさわらせてくれません。なつっこい小春と小太郎も、餌を与えられて食べているときだけさわらせてくれますが、それ以外のときは庭のどこに居ても私が近づくと逃げてしまいます。これもトラ吉親父を見て覚えたことなのかな。

一時は8匹の庭猫でにぎわったこの庭も、今では小春、トラ美、トラ江の3匹だけ。人間界も猫の世界も家族は移りかわるもの。離れていった猫たちが、みんなどこかで元気に頑張っていることを願います。無常。世の中すべて常ならぬもの。ちょっと寂しい。(-"-)

この庭へお越しの皆さんがふえています。この場所は私自身、運営するすべてのブログとホームページのなかでいちばん心が安らぐ場でもあります。よけいなことを言って後で気を揉んだりしなくていいし、猫や花や自然についてだけ語るのは純粋に楽しく穏やかな気持ちになり、失言することもないからです。ここへお越しの皆さんも、忙しい毎日のわずかな時間をくつろいでいただけるならうれしいです。できれば花や猫を見ながらお茶でもご一緒したいところです。

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2011年10月11日 (火)

小太郎と小春

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このTwo shotは昨年の今頃に撮ったもの。左が小太郎で右が姉の小春です。
この二匹は両親がおなじですが、生まれた時期がちがいます。小春がお姉ちゃんです。小春のきょうだいは彼女と小トラしか庭に来ず、もっと生まれていたなら育たなかったのでしょう。トラ子母さんが連れてきたのは二匹でした。

小太郎はその後に四匹生まれたうちの一匹で、唯一のオスでした。姉たち妹たちの中で育ったせいか甘えん坊で幼く、成長してもどこへも行かず、このようにいつも甘えて庭にいました。その頃は親父のトラ吉が庭も近辺も治めていたので、それでよかったのですが、餌だけ食べにくる父親にいじめられるようになってもへこたれず庭に居つづけました。私はずいぶん彼をトラ吉から守ってやりました。

そのトラ吉が昨年の十月末に他界しました。その後、急に縄張り意識が芽生えてじぃじぃに喧嘩を売り、あるじの飼い猫を追い出そうなんて無茶なことは猫には分からず、平和主義者のじぃじぃにかかっていきました。最初は逃げたりしながら小太郎をかわしていたじぃじぃも、くどい攻撃に本気で受けて立つようになりました。そこは先輩、じぃじぃの方が強く、拗ねていた小太郎は、今年の二月に突然いなくなってしまいました。小太郎は狩りもできないし、食べているのかと心配でしたが、彼は人なつっこく、誰かに餌をもらっているだろうと考えることにしました。

二匹はよくこうして眠っていました。そばでじぃじぃは、おまえたちはもう・・のような感じでいます。小春ちゃんは子猫のときから、じぃじぃにずっと恋心を抱いているようなのです。じぃじぃも小春ちゃんも手術を施していますが、小太郎はもしも出て行った場合に去勢していたら弱くて可哀想なのでしないでいました。どこかで野良猫の雄らしくがんばっていればいいなといつも想っています。元気にしているかなぁ。

買ったのに眠らせていたデジイチを使い始めたのは今年になってからのことで、これはコンパクトデジカメで撮ったものです。じぃじぃの後ろ姿がちょっと寂しげですね。しかし彼も飼い主とおなじで孤独を愛しているみたいです。「後ろ姿のしぐれてゆくか」山頭火。

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2011年10月 9日 (日)

稲刈り終わる

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トラクターの音が聞こえなくなりました。刈り入れ作業は終了したようです。

ここのお米を食べてみたい。また私は子どものようなことを考えている。

空は青空。風が運動会の音を私のところまで運んでくる。

ふと甦る。そして打ち消す。あの年の今の頃。ひどく苦しかった秋という季節。

私はこうしてまだここに住み、毎日おなじ景色を見て暮らしている。

それは きっと しあわせな こと なの だ ろう。

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2011年10月 7日 (金)

ヘンシン中

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アマガエルは体の色をカエル。ではなくて変える。
(私のPCでは‘かえる’は買える、返る、帰るなどよりも、まず‘カエル’と変換される)

これはおそらく緑色から茶色に変わる途中だと思われる。
黒い線が目尻(というのかどうか)にないので中みどり君か。

アマガエルたちは先日の雨の日にギャッギャッギャッと鳴いていたが、朝夕は冷える日もあり、そろそろ冬眠の支度に忙しいのではないかと思う。だから変身中なのか。

右近庵では毎年、10月の終わり頃までカエルの姿を見かける。ときには11月までも。
あれだけいた子どもたちは皆どうしているのだろう。親分みどり丸は元気なのか。

冬場にレンガをのけるとカエルが眠っていることがある。それはアマガエルよりも大きなもので、体長が5~6センチほどある。やはり茶色いまだら模様だ。どのカエルも変身するのだろうか。

花とおなじく生きものたちは一年を循環してふたたび次の年に私の前に現れる。
これも黙契。人とのつながりは不確かだが、自然界には黙契が成り立っている。

これは無上の歓びだ。
かれらは私に歓びだけを与えてくれる。

おい、君。もう眠らないといけないよ。
また来年、きっと出ておいで。約束だ。

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2011年10月 4日 (火)

サツマイモ収穫 第一弾

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裏庭のサツマイモを収穫した。私は動かない。動けない。だからいつものように娘一家がやってきて半分ほど掘った。あとは教え子たちが楽しみに掘る予定。

上はコンパクトデジカメで写したもの。実物より色が鮮やかに見えている。
鳴門金時なのに、まるで紅あずまのような色に写っている。

デジイチではもう少し土色で、実物の芋に近い。
ふかしたサツマイモのようにおいしそうな色なので、こちらを掲載。

花と同じ大きさの画像なのに、芋だからか部分撮影でも迫力に圧倒される。
サツマイモたちはひとつずつ紙にくるみ、冷暗所でひと月ほど眠らせて糖度を上げる。

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2011年10月 1日 (土)

ギンモクセイ

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きのう、起きると部屋じゅうに甘い香りが広がっていた。

どこかのキンモクセイが香っているのだろう。

この木を植えるまではそう思っていた。

けれどもいちばん香っているのは私の庭のギンモクセイ。

金と銀。

私はオリンピック選手ではないからどちらかといえば銀が好きだ。

キンモクセイではなくこのギンモクセイにしたもうひとつの理由。

この木は春と秋に花を咲かせ、一年のうち二度も香るのだ。

キンモクセイはオレンジ色 ギンモクセイは薄黄色。

それぞれに愛らしく それぞれの芳香は人を酔わせる。

この香りをあなたに届けられたらいいのだけれど。

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