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2011年11月26日 (土)

桜の木の葉と心情吐露

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春に咲いた桜の木は、葉を半分ほど落とした。花が愛でられる桜の木は葉を誰からも褒められない。楓のように美しくないということか。

新緑の頃のやわらかな緑いろ、そして盛夏の濃い緑いろ。いつでも桜の木は美しい。私の桜の木はまだ若い。紅葉するにも見よう見まねだ。桜の木は、花が散るように人びとは惜しんではくれないし、人間の美的感覚からするとこんな紅葉は美しくないのかもしれない。けれども植物の命のいとなみは美しい。何よりも自然の中で自立しているのが素晴らしい。

私はとても疲れている。大きなストレスが心身に蓄積しているのを感じている。そのせいか苛立つことがままある。だからと言って何も変化はないけれど、かなり溜まっているのを感じる。それはなぜかと考えてみた。ダッコのことだった。

数日間の寒さでダッコはまったく炬燵から出てこない。鳴かない。食べない。飲まない。もちろん立たない。炬燵の中で横たわっているだけだ。当然ながら痩せていく。見る影もなく痩せている。口元までスプーンで運んでも食べようとしないときはお手上げだ。

今日はダッコの鳴き声で目が覚めた。私はすぐには動けない。目覚めた時は身体の関節があちこち痛いからだ。しばらく鳴いている間、ダッコはすこし元気になったかと考えた。だから鳴くのだろうし、炬燵からも出てきているのだ。

どれと身体を起こしてベッドから起きて驚く。防水カーペットの上には大量の尿がこぼれ、ダッコはその上で必死でもがいていた。炬燵から這い出したのか。どんな状態にあるのか自分でわかっていたのだろう。身体は横になったままだが立とうとしてか四肢を動かし、大海の中で泳いでいた。それは惨めな姿だった。

可哀想に。そう思う気持ちはなかった。ため息をつくこともなく、泣きたくなるような気持も起こらなくなっている。大量の尿の中で寝そべってもがくダッコを抱き上げてタオルに寝かせる。吸水布をひとまず尿の上に置き、熱いタオルをしぼってダッコの身体を拭く。全身が濡れているので炬燵にもどす。カーペットの尿を拭きとり、更に熱い雑巾で丁寧に拭く。肩に激痛が走る。

私はいつまでこんなことをしなければならないのだろうか。世話をよくしてくれたHiroshiが逝って以後の7年間、年々ひどくなるダッコの認知症をつぶさに見ながら、なおも凶暴さを失わないこの猫の世話に私は格闘してきた。そして介護の困難さは今や最高潮に達している。私は自身のつらい体に鞭打ちながら頑張ってはきたけれど、交代してくれる者もなく、息抜きもできず外出もできず世話に追われ続けてきた。その疲労たるや鏡を見ると表情にもあらわれている。疲れているのだ。猫の介護に心底くたびれているのだ。

もう逝ってくれれば・・。そう思うことは何度もあった。心の隅にいつもあるのかもしれない。これが可愛い性格のじぃじぃならば私の感情はまた異なるのか。ダッコは人間に応える愛らしい動物ではなかった。自分のしたいことだけをして要求し、家じゅうを叫びながら走り回り、新築で入居したマンションの障子や襖を無残にも引き裂き、至る所に引っ掻き傷をつけた。私や家人に何度も怪我を負わせ、そんなに野性が強ければ外へ出ていけばいいと思ったことも度々あった。しかしダッコはどこへも行かず、したい放題で我が家に24年以上も住み続けて超老猫になった。今、すばしこい強靭な四肢は見る影もなくやせ細り、立つこともままならず、みじめにも糞尿にまみれている。それでも気に入らないと看護人の手を噛もうとする。

私はダッコを愛しているのだろうか。問われたら答えられない。全員が動物好きである家族の誰に聞いても答えず苦笑する。Hiroshiだけは日によって可愛いと言い、ちょっかいを出してダッコを怒らせて遊んでいた。そしてよく怪我をした。彼は家に居る時間が短いから苦痛はなかったのだろう。彼以外、家族の誰もが恐ろしいのでダッコをじゃらすなどしなかった。すり寄ってきても頭を撫でようものならガブリと噛まれ、のどを撫でると珍しくゴロゴロいうと思えば三度目くらいに強烈に噛む。‘可愛い’という形容が、これほどなじまない家猫はほかに居ないだろう。

ダッコは自分を人間と同じ地位にあると考え、家族の一員だと思っていた。ペットを称して‘家族の一員’という人は世の中に多い。我が家では誰もそう言ったことはなかった。しかし彼女はいつもいちばん威張り、家族の中心になろうとし、人間が彼女について楽しげに語っていなければ、いきなり噛みついたり、狂ったように走り回り、敢えて人間の気を引く激しい行動をした。叱られても人間の注意を自分に向けたい猫だった。可愛い猫が飼いたいと願っていたが、人間だけでなく猫にも凶暴なダッコと共存できる猫は居ないと思われた。実際、どんな猫も受け入れず、いじめ続けた。その洗礼に耐えつづけたごく少数の猫が一時期同居した。じぃじぃは何もわからない赤ん坊の時から威嚇され続けてきた。だからダッコを好まない。

このダッコを抱っこ出来るようになったのはわずか2~3ヶ月前のことだ。それまでは弱っていても噛みついたり牙をむいた。幸いにも引っ掻く力は無くなった。世話をするのもいつ噛まれるかとヒヤヒヤだが、とくに顔を拭くと怒って噛みつく。どこをさわっても噛もうとするので、充分に身体を清拭できず、体を洗うのにも大ごとだった。そんな猫だから弱って身動きが取れなくなってきた頃からようやく可愛いと思えるようになってきた。

しかしながらフラフラと家じゅうを歩きまわって好きに排泄する時期はたいそう苦労した。動けないくらいの方がペットシーツの上で排泄してくれる。世話をする者には歩かない方が楽なのは事実である。しかし生きているのだから食べないのは困る。スプーンで運んでやるとわずか舐めては遠くを見ているような目でじっとする。根気よくスプーンを口に運ぶのには忍耐が要る。肩も腕もひどく痛んでくる。そのうち食べずに横を向く。水だけはよく飲むが、これも苦労する。うつむくことはまったくせず、何でも顔の高さまで持ち上げ、ちょうどいい角度に傾けてやらなければ食べず、飲まない。摂食させるのに根くらべだ。私の関節泣かせの猫である。

猫の介護を経験して私は‘人’の介護がいかに大変かを痛感した。それは経験していないが、その片鱗を垣間見たような気がする。同時にそういった仕事をしている人びと、家庭で介護にあたっている人びとの苦労が理解できた。ダッコは歩けなくなった。また歩くのかどうかわからない。食は極めて細くなった。もう終わりは近いのか。もしかしたら私は逝くことを待ち望んでいるのか。現在、私の少ないエネルギーの大半を費やすこのことのために、多くのするべきこと、したいことが停止している。私の病気も進む一方で、動ける時間は刻々減少していく気がしている。

私はひどい人間だろうか。しかし、もしもこの厳しい状況を理解してくださる人がいればありがたい。Hiroshi没後の七年間、私はひとりで懸命にこの猫と向き合ってきた。ペットという言葉も当たらないこの凶暴な猫と対峙してきた。その間、私の病気はずいぶん進み、毎日が自分のことだけで精一杯になっている。長女は産休中で、二歳児と乳飲み子の世話に忙しい。次女も離れて暮らし、仕事人間で重要な仕事を任されている立場にある。社会人となって各自のことに懸命な娘たちに猫ごときで迷惑はかけられない。

糞尿にまみれたダッコの身体は匂う。いくら熱いタオルで拭いても匂いは取れない。今の季節は風呂は禁物で、高齢猫は風邪をひくと命取りになる。食べないと少しでも食べさせようとする。水を苦労して飲ませようとする。これらのことを休みなく、交代なくしなければならない私は心身ともに疲れている。そのうえ自分のことが何もできないことの苛立ちが大きくなっている。私は弱いのだろうか。自分本意な人間なのだろうか。自問しながら今は老猫の介護だけを続けている。

しかしまた炬燵の中で音がする。ダッコが何をしているのか見てやらなければならない。私はこの猫がまだまだ生きつづけることを望んでいるのか、それとも・・・。答えは両方か。いや、片方か。いま言えることは、送ったあと、きっと私は悲しむより先に疲れを出して寝込み、快復までにかなりの時間を要するだろうということだ。もう猫はふやさない。拾わない。人に頼まれても貰わない。動物が飼える体力が私にはすでに無い。

けれども私はわかっている。この荒い気性も稀な長寿もダッコが望んだことではなく、天から与えられたものなのだ。その稀有な猫と関わったのも私に与えられたことなのだ。何度も死にそうになって心配し、悲しんだ。それは本当だ。しかしながら最終ステージだと知りつつこちらの体も心も限界まで来ている。この状態は、どうすれば突破出来るのだろう。私の場合、それはたぶん書くことか。だからこの場を借りて心情を書き、とってもキツイと初めて吐露した。これは公で言うことではなく、ちょっと情けない。しかし私を応援し続けてくださる少数の方だけには受けとめていただけるように思う。介護とは、動物であれ決してきれいごとではない。そのことを隠さずに伝えたい。ともあれ私は必死でやっていることをお知らせしたい。

読んでくれてありがとう。自分の日記に書くようなことを書いてしまったね。‘限界’というのを超えた向こうには何があるのだろう。それを知るのもいいことかもしれない。限界の向こう・・・。見てみたいね。今は昨年のように私が倒れないことだけを願っています。とにかく頑張るしかない。ただ今はそれだけ。

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コメント

はじめまして。実家のねこたちの世代交代でなやんでいたときに、良さんのこちらのブログを初めて拝見し、以後、猫たちと自然を細やかな描写、それぞれの命の物語にとても感動をいただいています。とら吉の最後のこと、私の脳裏にいつまでも焼き付く、奇跡のようなお話に感動し、涙が出ました。忘れられません。とら吉の死を迎える潔く美しい様がとってもかっこよく、彼に憧れてます。
今回のお話を拝見し、心身お疲れでいらっしゃるご様子に、想像以上の過酷な状況だとお察し致します。胸が痛む想いです。ダッコさんのために身を徹して看病するあなたの覚悟とやさしさ、そして小さな命あるものたちを大切にして過ごされているその姿に、私は脱帽し、勇気と希望をいただきました。大変な最中に、きれいごとのように聴こえてしまうかもしれず、大変恐縮なのですが、どうしてもこの気持ちを伝えたくて、コメントさせて頂きました。ダッコさんの容態に良き道が開けることを心よりお祈り申し上げます。

KOMARI (From Seattle, WA )

投稿: KOMARI | 2011年11月27日 (日) 12:11

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