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2012年4月17日 (火)

ホトケノザ

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春の雑草とされる‘ホトケノザ’。漢字で書けば‘仏の座’。ほんにこの草はめずらしい花を咲かせる。まるで仏様が手を合わせているようだ。

庭猫ガールズのうちの一匹、トラ江の具合がよくない。昨夜はひどく悪そうで心配した。もしかしたら駄目かと見えた。風よけを工夫して寝床にはカイロを入れてやり、缶詰のフードを与えた。また私は迷っていた。病院へ連れていくべきかどうかということだ。

この猫は五匹生まれたなかで二番目に小さかった。いちばん小さかったのはじきに来なくなったので育たなかったと思われる。このトラ江も長くは生きないと見えた。しかしきょうだいたちの中で頑張って生きてきた。食べるのが遅い。要領が悪い。けれども一生懸命に食べた。

食べても食べても太らない。この猫だけが痩せている。ときどき風邪をひいてつらそうだった。見るからにひ弱なこの猫が、頑張って生きているのはそれだけで称賛に値する。他の猫たちは狩りをするが、この猫はしない。いつも敷地内のどこかで日向ぼっこをしている。

いずれこの猫を送ることになるだろう。そう思って見つめてきた。送ってやるのは私の務めだと考える。厳しい寒さを耐えた春、具合が悪くなっているのはなぜか。おそらくエイズか白血病。その両方かもしれない。抵抗するのを捕まえ、病院へ連れていくことが私の体力では不可能だ。ダッコも延命治療はしなかった。

ノラはノラらしく。この言葉に私は逃げているのか。嫌がっても治療すれば長く生きるかもしれない。しかし私には動物病院へ通う体力がない。そのために、みすみす助かる命を縮めることになるのか。再び自問自答をくりかえす。そして結論する。ノラはノラらしく。

今日、箱を見る前に覚悟した。死んでいるかもしれない。そう思って箱をのぞいた。よかった。箱の中は空っぽだった。昨夜のエサはぜんぶ無くなっていた。今日は晴天で太陽が暖かい一日だった。陽のあたる所をえらび、トラ江は気持ちよさそうに春の光を浴びていた。

この猫を看取る。この猫を送る。右近庵のすべての猫を私は送る義務がある。人とも縁、猫とも縁。縁のあった猫たちは最後まで。最期まで。そんなことを考えて庭を歩けば、其処此処にホトケノザ。合掌する仏様であふれている。穏やかな庭でくつろぐ猫たちと、今このときを分かち合う。これはまぎれもなく幸せ。

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2012年4月12日 (木)

雨のあとのマイ桜

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昨日の激しい雨に打たれたあとも私の桜は花びら一枚落としていなかった。家の中からガラス越しに見ていると、強風に吹かれ、どしゃ降りの雨を受けていた。それでも私の若い桜は散らなかった。咲いたばかりの桜の花は強い。このように強風や強い雨でも花を落とさないのだ。したがって私の裏庭に降った昨夜の雨は「花ちらし」の雨ではなかった。せっかく咲いたのだ。もうしばらく見ていたい。まだ散るな。

これは今日の夕方に撮ったもの。昼間のにぎやかな太陽は沈みかけていた。薄闇がおとずれる前の花曇り。そのような中で撮った。これは私の持論だが、桜は晴天に似合わない。薄桃色と青空の配色は洗練されておらず好まない。私は太陽の日差しを浴びると皮膚がすぐに赤くなり、そのあと身体全体がだるくなる。そのために日差しを避けて暮らすようになった。したがって写真を撮るのも夕暮れが多い。写した画像に明るく修整を加えるのはたやすいことだが、角膜が薄くなった私の眼にはこのくらいが心地いい。すべてのものごとに固定観念が存在するが、そんなことは気にしなくなってきた。自分自身が心地よいことが最も美しいと感じるならばそれでいい。

今年で五歳になる私の桜は元気いっぱい。しばらく私の目を楽しませてくれるだろう。しかしまもなく気を揉ませる。もう散るのではないか。いつぜんぶ散らすのだろう。まるで年頃の娘を案じる父親のような気分である。相変わらずの桜馬鹿だ。ただし外を出歩くのが大変になってきた今、この桜だけに馬鹿となり、それで充分だと私は満足している。風邪はいくぶんよくなってきた。

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2012年4月 7日 (土)

もう咲いていた桜

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大きな勘違いをしていた。桜はすでにひらいていた。
庭のフェンス越しに写していた枝は、木の半ばくらいの高さにある。そこについた蕾ばかりを庭から見て気にしていたのだ。

先日、庭猫の誰かが仕留めて食べた鳩の残骸を埋めるのに裏庭へ行き、桜の木のそばにしゃがんで穴を掘った時にも気づかなかった。葬ることと般若心経を唱えることに集中し、桜の木を見なかったのだ。あたりは薄闇に包まれた時刻でもあったことから、裏庭へ出ながら気づくのが遅れてしまった。

木の下方の枝に、すでに花はひらいていたのだ。今日は天気がいいので裏庭に出た。しばらく其処に出ることがなかったから気づかなかった。そう考えるのは自然なことかもしれない。けれどそうではない。あれだけ開花を待っていたのに、一本の木の全体を見ようとせず、動かずして庭の方から見るだけで待っていたのだ。

「木を見て森を見ず」という言葉がある。ものごとの全体を見ずに一部分しか見ていないことの例えだが、この場合、「中ほどの枝のみ見て木の枝すべてを見ず」ということか。これは失敗した。最初の開花はすでに数日前に認められたはずだった。

私の桜は下方から上へと上る。そんなことも分かっていながら、気づかなかった。気が回らなかったにせよ、ドジをした。これが老化というものの始まりか。思考の範囲が狭くなってきているのか。そうは思いたくないが、おそらくそうであろう。私はどうかしている。身体がつらく、なるべく動かない生活になっているからか。いや、それだけではないだろう。思考が狭められてきたのだろうか。

情けないとも思うが、変わりゆく自身を受け容れることは大切だ。こうではなかった。そう思うことが日常のあらゆる場でふえてきた。私の場合、病気の進行も関係するが、年齢的な衰えは否定できない。嫌になることもあるが、引き換えにふえていくものがあるのも事実だ。老練。この言葉に若い時から憧れていた。何においてというのではなく、ただ憧れている。とりわけ精神性においてこの言葉がふさわしい人間になれたらと憧れているのだ。

暴風雨のようなあの突風の日以来、風が強い日が続いている。「風待ち」をして満開の枝を写す。その枝先の花も写した。これがその一枚。私の桜は誰にも見えない所で最初の花をそっとひらいて揺れていたのだ。ごめん。悪かった。許して。桜は微笑んで揺れていた。薄黄色の花を咲かせる「ウコン」の桜も隣に植えてみたくなった。

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2012年4月 5日 (木)

マイ桜 ひらいた

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ひらいた。咲いた。私の桜がひらきはじめた。十ばかりの花がひらいた。
きのうは蕾ばかりだったけれど、今日はひらいていた。うれしい。

最初の開花をしっかり確認する。この木が花を咲かせて以後、きめたこと。だから蕾がふくらむとそわそわする。今日はひらくか明日なのか。落ち着かない日が続く。

ふたたび寒くなってきたので、一気に開花とはいかないだろう。長い期間を楽しめるので私には好都合だ。先程、ポストまで行ってきたが、そばにあるみごとな桜の木も同じような開花状況だった。この辺りは遅い。大阪では最も寒い地域のひとつなのだ。とくに今年はいつまでも寒くて開花が遅れている。

寒いと静かだ。暖かくなると、この静かな街でさえ賑やかになる。どちらが好きかといえば静かな方だ。しかし寒さが身体にはきつい。庭も寂しげだ。気候がよいと騒々しいが、気分はたしかに上を向く。身体も楽で庭も華やぐ。それぞれの季節にはよさがある。四季があるのはめまぐるしいが、それに応じてめまぐるしく暮らすことに、それなりの価値があるのだろう。そうして一年がめぐり、歳月が重ねられる。

昨夜は風邪の兆候があったので早くから布団にもぐって映画を観ていた。さいわい今日は改善した。けれど明日はまた寒くなるという。まだ冬物が仕舞えない。ほんに私たち人間は、自然の手玉にとられてなされるがままに合わせて暮らす。体調維持が難しい春である。昨夜、東北では雪だとメールをいただいた。北国の冬は長い。

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2012年4月 4日 (水)

私の桜は出番待ち

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今年は寒さが長びき、植物が遅い。私の桜もまだ咲かない。
しかしたくさん蕾をつけている。咲くのが楽しみで毎日ながめている。
台風のような暴風雨が駆け抜けたが、いまだ蕾であったのが幸いした。

この桜は2007年に植えた。1メートルあるかないかのソメイヨシノの苗だった。
開花まで何年もかかるのかと思っていたが、二年後から花をつけ始めた。そして年々、花の数をふやしている。「桜切る馬鹿 梅切らない馬鹿」というので何もしないで放っておいたが、枝をうまく張り広げて桜の木らしくなってきた。昨年よりも枝につく蕾がまた多くなったように見える。

桜の木の下には死人が眠るという話がある。私の桜の木の下や周りには、三匹の猫たちと、鳩、すずめ、ひよどり、すずめなどの鳥類や、ヘビ、トカゲ、ネズミ、ムカデ、セミなど両生類、爬虫類、昆虫も眠っている。命の循環により、それらの生きものたちが与える栄養で私の桜は美しい花を咲かせるのだ。願わくば、私もそのあたりに葬ってほしいものだと思う。しかしそれは不可能なことのようだ。

今年は日本からアメリカに桜の木を贈って100年めになるという。桜を愛でるのは我が国の者ばかりかと思いきや、ニュースではアメリカの人々も満開の花の下で写真を撮って興じていた。桜並木に沿ってポトマック河が流れている。この河の上を真っ白な船でゆっくりと運ばれたなつかしい日々が思いだされた。もう30年以上も前のことだが今でも鮮明によみがえる。

この桜を植えてから、近隣の桜さえ見に行かなくなった。体力の弱りが急激に進むと分かっていたわけではないが、あの時に980円ばかりで買ったソメイヨシノを植えてよかった。近頃、春が近づけばそう思う。今まさに出番を迎える若い女優のように、私の可憐な桜は舞台の袖で待機している。きれいに咲けよ、私の桜。  
                           (久々にデジイチで。写せる喜びを満喫)

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2012年4月 2日 (月)

元気な花とじぃじぃ

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冬のあいだ雪をかぶったり霜に悩まされたりと苦難の連続だったビオラやパンジーは、春になって元気いっぱい。また、例年ならこの時期はユキノシタの花は終わっているのだが、いまだ真っ盛り。

きのう、今日と庭仕事をした。すぐに疲れるので休み休みだったけれど、土いじりは何より癒される。植え替えたり雑草引き、今頃に球根を植えてみたりとすることはたくさん。

そんな私をじぃじぃは手伝おうかとじっと見ている。手伝わなくてもいいから、足にじゃれつくのだけは勘弁だよとカメラを向けるとじっとしてくれた。外遊びに夢中の彼は薄汚れている。

明日は大荒れの天気とか。草花を風の当たらないところへ移動させなければ。

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