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2012年4月 7日 (土)

もう咲いていた桜

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大きな勘違いをしていた。桜はすでにひらいていた。
庭のフェンス越しに写していた枝は、木の半ばくらいの高さにある。そこについた蕾ばかりを庭から見て気にしていたのだ。

先日、庭猫の誰かが仕留めて食べた鳩の残骸を埋めるのに裏庭へ行き、桜の木のそばにしゃがんで穴を掘った時にも気づかなかった。葬ることと般若心経を唱えることに集中し、桜の木を見なかったのだ。あたりは薄闇に包まれた時刻でもあったことから、裏庭へ出ながら気づくのが遅れてしまった。

木の下方の枝に、すでに花はひらいていたのだ。今日は天気がいいので裏庭に出た。しばらく其処に出ることがなかったから気づかなかった。そう考えるのは自然なことかもしれない。けれどそうではない。あれだけ開花を待っていたのに、一本の木の全体を見ようとせず、動かずして庭の方から見るだけで待っていたのだ。

「木を見て森を見ず」という言葉がある。ものごとの全体を見ずに一部分しか見ていないことの例えだが、この場合、「中ほどの枝のみ見て木の枝すべてを見ず」ということか。これは失敗した。最初の開花はすでに数日前に認められたはずだった。

私の桜は下方から上へと上る。そんなことも分かっていながら、気づかなかった。気が回らなかったにせよ、ドジをした。これが老化というものの始まりか。思考の範囲が狭くなってきているのか。そうは思いたくないが、おそらくそうであろう。私はどうかしている。身体がつらく、なるべく動かない生活になっているからか。いや、それだけではないだろう。思考が狭められてきたのだろうか。

情けないとも思うが、変わりゆく自身を受け容れることは大切だ。こうではなかった。そう思うことが日常のあらゆる場でふえてきた。私の場合、病気の進行も関係するが、年齢的な衰えは否定できない。嫌になることもあるが、引き換えにふえていくものがあるのも事実だ。老練。この言葉に若い時から憧れていた。何においてというのではなく、ただ憧れている。とりわけ精神性においてこの言葉がふさわしい人間になれたらと憧れているのだ。

暴風雨のようなあの突風の日以来、風が強い日が続いている。「風待ち」をして満開の枝を写す。その枝先の花も写した。これがその一枚。私の桜は誰にも見えない所で最初の花をそっとひらいて揺れていたのだ。ごめん。悪かった。許して。桜は微笑んで揺れていた。薄黄色の花を咲かせる「ウコン」の桜も隣に植えてみたくなった。

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