« 2019年7月 | トップページ

2019年8月23日 (金)

予知がむずかしい愛猫の「その時」

こんばんは、皆さん。ご訪問ありがとうございます。
夜になって強い雨がひとしきり降りました。今日はいくぶん涼しい日でした。

タイトルにあるように、今日は愛猫の「最期の時」を知る難しさについて話します。あくまで私の経験からだけの内容となりますが、宜しかったらお読みください。四十九日を終えた愛猫のはるかさんは、高い評価を得て心地いい世界に安住できたと思います。つらいですが彼女が逝く数日前からの様子を思い出しながら書いていきます。

6/30 食欲が激減し、死に場所へ行きたがる行動を示し始めた時、その時が近づきつつあることを知りました。但しまだそれは漠然としたものでした。き旧宅へ連れて行った時も、今住んでいるマンションでも、生まれた場所の方向へ行こうとし、元気よく行動したり、身体をそちらへ向けていました。逝く五日前のことでした。食餌はすでに強制給餌になっていました。

7/1 その頃からは、あれほど飲んでいた水も飲まなくなっていたので、シリンジで水も補給しました。生まれた野山の方向に体を向けては、しきりに悲しげに鳴いていたのが亡くなる三日前です。普段は鳴かない猫なのに、せつなく、悲しげに鳴き続けるのを聞いている私も悲しかったです。死期が近づいている。それは確実に感じ取っていました。しかし死に場所へ行きたがる行動や鳴き声から、目前に死が迫っているとは考えづらいことでした。

7/2  翌日、尚も私は好きだったホタテなどをムース状にして強制給餌を続けました。その日の夕方、ずっと出ていなかったのに寝床で排便しました。まだ出したい様子なのでトイレに連れていきました。すると長い時間をかけて尚も一生懸命に出しました。その後、疲労困憊した様子でぐったりしてしまいました。私も長い時間、彼女の身体を支え続けて疲れてしまいました。ふらついて歩くのが困難な状態になりました。

7/3 朝、ムース状のフードを強制給餌、その後にベランダの方へ何とか歩き、出たそうなので抱えて出してやりました。もう生まれた場所の方向に体を向けることは無く、早々に寝床に戻りたがりました。しかし悲しげに鳴くのはその日もあり、私の記録にも「死期が近づいてきたように思う」とあります。午後二時過ぎ、ふと寝床を見ると、苦しそうにあえいでいました。息が荒く、目を見開いてハァハァと苦しそうでした。もしかしたらこのまま死んでしまうのかもしれないと私は覚悟しました。しかし、しばらくすると持ち直したように呼吸は落ち着いていました。

その夜、私が眠っている夜中に逝くのではないかと案じ、寝床を私のベッドに近づけて消灯しました。午前四時、目覚めると寝床に居ません。電気をつけると一生懸命に床を汚して排便した跡があり、もう完全に歩けなくなっていた彼女は、またもやマンションの玄関の方まで這って行ったのかそこに居たのです。さっそくオムツを買わないと。彼女の身体をきれいに拭き、寝床も変えてあげました。抱き上げた時、妙に手足が冷たいと感じました。カイロを入れてあげないと。死が忍び寄りつつある彼女に私はまだそんなことを考えていたのです。

7/4  朝に起きた時、寝床に排便し、再びそこから這っていったのか玄関に近づくように廊下に居ました。しかし私はそのように動いた彼女から、その日に死が訪れることを察知できなかったのです。身体をきれいに拭き、残り少なくなった輸液を貰うために動物病院に昼前に行きました。前日に発作のような症状になったは落ち着いたと報告しています。輸液を3袋購入し、紙おむつも途中で購入し、急いで帰りました。ぬるま湯で再び体の清拭をおこないました。はるかさんはとても気持ちよさそうに目を閉じていました。

午後四時半、「ナォー」とうめくような声がし、急いで駆け寄り、オムツを確かめると大小とも少しずつ出ていました。新しいオムツに替えてあげると気持ちよさそうに目を閉じました。もしかしたら逝くのかもしれない。でも人間のように寝たきりになって命が続くこともあるのかもしれない。そんな思いから私は輸液を三袋も購入したのだと思います。まもなく逝くとは知らない私はなるべく寝床から近い所でこまごまと家事をしていました。あれは何時頃だったのでしょう。午後六時過ぎ頃だったと思います。再び「ナォー」という弱々しい声に急いでそばに行き、寝床ごと私の膝に乗せ、タオルを掛けた体をさすり続けていました。

そろそろ輸液の用意をしなくては。給餌のフードも準備しないと。そう思って私は彼女に声をかけました。「ちょっと待っててね。用意してくるから」と。輸液の準備をし、タオルをめくっていつものように背中の皮をつまんで「ごめんね」と言って針を刺しました。彼女は反応しません。ピクリとも動きません。おなかも動いていません。彼女の息はすでに停まっていたのです。すべてを悟った私は、慌てることなく「あぁ、逝ったんだ・・」と考えていました。彼女はおなかの中をきれいにし、息が絶えた瞬間すら分からないほど静かな逝き方で、眠るように22年の生涯を閉じました。

このように、頭ではもうじき召されると分かっていても、私は輸液を買い足し、オムツ買ってあてがい、寝たきりになってもまだ世話を続けるつもりでいたのです。客観的に状態を考えることは出来ていましたが、目の前に重態の猫が居たら、出来るだけのことをして命を長くしようとする行為をしてしまうのです。けれども多くの人がとる、病院へ駆け込むという行動は取らないことを決めていました。弱りが激しくなったら静脈からの輸液をして一時的に元気にさせることや、注射や薬で気慰めの重態から抜け出させるための治療は、死を控えた子には不要と考えるからです。

彼女は年齢も年齢ですが、もっと若い子でも同じ道を選んだでしょう。それは、どう抗っても逝くときは逝くものだと思うからです。それが寿命というものだと考えています。人間のように延命措置は受けないと生前から家族に伝えておくことは動物たちにはないけれど、猫や犬たちは自分の死期を悟っており、好きなかたちで死を迎えたいと願っています。その点で、はるかさんを生まれた野山で息を引き取らせてあげられなかったことを申し訳なく思っています。でも、私の膝の上で、私の掌で撫でられながら知らぬ間に逝ったはずです。

末期の病気と闘うあなたの可愛い猫さんの死期を正確に察知するのは難しいことです。ひとつのめやすとして、飲まない、食べない、そして立てなくなったら「その時」は近いです。そんな中でも私のように、まだ生き続けるのではないかという期待のもとに行動することは誰でもあると思います。‘まだ生きるかもしれない’と‘間もなく逝くだろ’という両方の気持ちが存在する時にも「その時」が近づいたことを念頭に置き、取り乱さず、どうするのが逝く子に最善かを考えてください。必ずしもその時期に慌てて病院へ駆け込むことが最善だとは思いません。落ち着いて最期まで寄り添ってあげてください。

今日は私の愛猫の死の数日前からの様子をお話ししました。何か皆さんの参考になることがあればと思って書きました。それでは今日はこの辺で。  良

| | コメント (0)

2019年8月21日 (水)

愛猫はるかさんの忌明け

皆さん、こんばんは。今日は愛猫はるかさんの忌明けです。好きなものをたくさん並べ、先ほどお経を詠みました。

人間の場合、亡くなって以後、七日ごとに審査が行われます。生前をどう生きたかということから裁量されるのです。仏教ではこの期間を「中陰」と呼びます。その間に故人は精進を重ね、此岸に居る人間たち(遺族など残された人たち)も、お経をあげるなどして故人を応援します。そして七回目の七日間が過ぎて四十九日を迎え、晴れて彼岸の住人となります。

猫の場合も同じかどうか分かりませんが、今日は愛猫はるかさんの四十九日にあたります。勤勉な彼女ですから、この期間も高い所へ行くために精進をしていたと思います。しかし猫だけでなくすべての動物たちは、おしなべて皆、高い所へ行くのではないかと思います。なぜならば、かれらは人間界で「悪」とされていることは何もしていないからです。動物たちは生まれたら一生懸命に生きて人間のような悪行はおこなわず、死が訪れたらジタバタせずに悠々と逝きます。だから皆、お釈迦様の住む極楽浄土に行って楽しく快適に暮らしているのだと思います。そうです、きっとはるかさんも、皆さんがお別れした猫さんたちもです。

こんなことを言う私はまだ猫の居ない生活に完全に慣れたとは言えません。雑事に追われて慌ただしく日々が過ぎる中、ふと寂しさを感じます。最後の方の辛そうだった姿が焼き付いて、今でも脳裏に浮かびます。年齢に不足はなく、穏やかに召されて天寿をまっとうした彼女ですが、居なくなった寂しさは簡単には無くなりません。あとは日にち薬に頼るしかありません。

高校野球も明日は決勝戦ですね。すべての学校に優勝旗を。そんな思いを持って観てきましたが、あした頂点に立つ学校が決まります。星稜も履正社も両方とも頑張れ!それでは今夜はこの辺で。  良

 

| | コメント (0)

2019年8月15日 (木)

死が迫った愛猫に何ができるか

こんばんは。台風10号の影響で、私の住む近畿地方でも夕刻から激しい雨になって降り続いています。
今日は74回目の終戦の日です。私も戦後生まれで戦争を知りませんが、父は戦争に行ったのでその当時の話をいろいろ聞かせてくれました。しかし若い人たちを始めとし、大半が戦争について知識を与えられることなく大人になっていくので、その悲惨さや、戦中戦後がいかに大変であったかを知る人が少なくなってしまいました。私は常々、広島・長崎の原爆の日と、終戦の日は国民がどこに居ても、何をしていても1分間の黙とうを捧げるべきではないかと考えてきました。なぜその声が大きくならないのか不思議です。今の日本の繁栄は、戦争による莫大な犠牲のもとに在るからです。若い人たちが戦争について学ぶ機会が無くなりつつあるのが本当に残念です。

前置きが長くなりました。では猫のことを語ります。病気と闘って徐々に弱っていく愛猫を見ているのはつらいものですね。悲しく、つらく、心が重くなり鉛のようになってしまいます。でも腎不全のように治らない病気であることやその重さ、年齢的なことも加わると、そばにいる人は、そう遠くない日に送ることになるのを漠然と理解するでしょう。しかしその段階では、あとどれくらい生きるのだろうかということは全く見えていません。猫は人間のように苦痛を訴えることもなく、どうして欲しいとも言いません。その為、食欲が落ちてきたら、いかにして食べさせようかと努めます。フードを変えてみたり、私のように手作りごはんを作ってみたり、またある人は病院を変えて他の医師に相談したり、ネットの情報で弱ってきた猫を改善する手段や方法を躍起になって得ようと努めます。私もその一人でした。

しかし治らない病気は進行し、年齢が若くなることもありえません。病気は重くなり、年齢も重ねているのに、そばに居る人は涙ぐましい努力をし続けるのです。それは何のためにでしょうか?猫が少しでも元気になるように?少しでも長く生きさせるために?それともその猫が居なくなれば、どうしていいか分からないほど悲しい現実が、少しでもあとに来るようにと願うためでしょうか。これらすべてがYesだと思います。私もそうでした。けれども『その時』は刻々と迫り来ます。一縷の望みをかけ、ありとあらゆる努力をしてみても、愛猫の状態は死に向かって少しずつ進むことを止めることはできません。それならば、と考えます。せめて苦しまないで逝かせたい、送る時は静かに穏やかにと願います。死に向かって愛猫が歩み始めていることに目をやらず、病院へ行けば何とかしてもらえると願って駆け込む人も少なくないようです。

このブログへお越しの皆さんは、現在、猫と暮らしている、その猫が病気である、という方々が多いと理解しています。こんな時はどうすればいいのだろう、何を食べさせればいいのだろう、殆ど食べないけれど、どうすれば・・・。すがる思いでネットで同じような人が居ないか探してたどり着いた方々もおられるかもしれません。ここまで書きながら、すべて自身のことを書いているなと思いました。そうです。私も皆さんと同じで悩みながら努力を続けてきました。いつかは逝くのだろうと考えながら一日一日を共に過ごしていました。そんな中で私が願っていたことは皆さん同様に『穏やかな臨終』でした。だから最期が近づけば、私の願望だけで薬や治療のための行為で愛猫に負担を与えることは絶対にしないと決めていました。このたび送ったはるかさんの息子のJJを送るまえ、最期近くで私はまだ病院へ駆け込み、彼の意思に反する‘むりじい’をしてしまったのです。彼はすでに自身の死期が近いことを知っているかのような行動をとっていたにもかかわらず私が取り乱してしまいました。これが大きな悔いとなって残っています。

では死期が近づいた猫に対し、人はどういう行動をとればいいのでしょう。はるかさんは逝く数日前、大好きな旧宅の庭へ連れて行きましたが、庭を喜ばず、敷地から出て行こうとしました。庭ではなく生まれ育った野山に行きたかったのです。なぜ?それは青空のもとで死を迎えたいからです。馴染みのある場所で臨終を迎えたいから準備をしたかったのです。それをさせてやる勇気が私には無く、痩せに痩せた彼女を抱いて、マンションに戻りました。その2~3日後、隣のベランダへ入り込み落ち着いて一定の方角を向いていました。更にその2日後、ついには水も飲まず、何も食べなくなりました。そしてとうとう脚も立てなくなりました。それなのに翌朝にはマンションの玄関近くまで這って進んでいたのです。隣のベランダもマンションの玄関も、生まれ育った所の方向に当たります。あくまでも彼女は自分の死を野山でという意思を示し続けました。その頃には彼女の不思議な行動も理解していましたが、彼女が望む場所で死を迎えさせてやることはできませんでした。このことは今も可哀そうなことをしたと思っています。本来、動物たちが命を終えるたい場所へ行かせてやることが私には出来ませんでした。

亡くなる日、私はそんなことは知らずに少なくなった輸液を貰いに医院に出向きました。身体をきれいに拭き、歩けない彼女にオシメをしてあげました。食べない、飲まない、歩けないのに、もうしばらくは寝たきり生活が続くと思って私は張り切っていたのです。ところが彼女はその日の午後7時頃に逝きました。逝ったのは私の膝の彼女のベッドの中でした。苦しむこともなく、静かで穏やかな最期でした。そのことには安堵しましたが、それが彼女の最も望む逝き方ではなかったことに自責の念を感じました。一方で、重篤になってからも病院へ連れて行こうとは思わなかった私の考えは正しかったと胸を張ることが出来ます。重篤になってバタバタと病院へ連れて行き、点滴や治療を受ける、あるいはそのまま入院させる、だけど助からなかったという場合も多いと聞きます。最後は病院のケージで死なせてしまったことを後悔する人も少なくありません。それを思うと、ゆったりとした時間の中、私の膝の上で静かに逝ったはるかさんを、落ち着いて看取ることが出来たのはよかったと思っています。

さて、皆さんは愛猫さんが重篤になってきたら、どんな行動を取られますか?ちなみに猫をはじめ動物は皆、自分の死期を悟ります。事前に察知します。そして静かに果てたいと願って好きな場所で逝きたがります。それを叶えてやることは難しいですが、臨終の間際まで医療機器に囲まれ、無駄な針が刺される状態にされることは猫さんの本意ではないということを理解してあげてください。そばに居る人は慌てないでください。あたふたと病院に駆け込むのは考え物です。人間を含め生き物は皆、いつか死にます。それをみずから察知している猫さんに、病院ではなく、あなたのそばで静かに臨終を迎えさせてあげては如何でしょうか。

猫にとって死とは人間が感傷的に考えるものではありませんが、厳粛なものであることは人間と同じで自然に還る大切な時なのです。生き物たちは、そろそろ自分は死ぬ時期だと淡々と捉え、静かに逝くのを望んでいるのです。その猫さんの意思を極力くみ取って寄り添い、無駄な治療は控えて声をかけ、優しくなでて最期を看取ってあげること、死まで静観して見届けてあげること。それがそばに居る人が出来る最良の事だと私は思います。心の準備は早めにして調え、気持ちの余裕をもって送ってあげるのが愛猫さんにも、皆さん自身の‘喪失の悲しみ‘緩和にも良いことだと考えます。今日は遠からず愛猫の死に臨む人たちに私の考えを述べました。それでは今夜はこの辺で。  良

| | コメント (0)

2019年8月12日 (月)

愛猫との関り 過去の後悔いろいろ

皆さん、こんばんは。
お盆休みに入っている方、お盆もお仕事の方、台風が近づく中、帰郷で出かけている方など、お忙しい時期ですね。引退シニアの私は一年365日が休日の為、現役の時のように休みの日が貴重だという感覚を忘れつつあります。ともあれ明日からお盆です。はるかさんの初盆です。

このブログにお越しになるのは腎不全他の病気を抱えた猫さんの居る皆さんが多いのではないかと思っています。ご訪問の皆さんのアクセスが多いページというのがあります。そのひとつが、はるかさんの息子JJの最期近くの記事です。それらは2014年1月8日と1月13日の記事です。もうなすすべ無く悪化した病気と闘う彼を見ているのが辛くて私は毎日泣いていた頃です。『飼い主はまだあきらめない』『飼い主が迫られる決断』というタイトルで書いた両記事です。彼を看取って5年後、ママのはるかさんを看取りましたが、この度は息子JJの時のようにバタバタと無駄な動きはせず、そのため死を目前にした病気の猫に無理な負担をかけることが無かったと思います。

24歳5ヶ月で逝っただっこは完全な老衰でしたが、腎不全という病気に苦しんでいた11歳のJJを看病する過程では悲しみ続けました。猫との関りは数えきれないけれど、自由猫として関わっていたので居なくなってしまう猫も多く、臨終まで看取ることが少なかったのと、腎不全の猫を看病することが初めてだったので、知識もなく、病院にも恵まれず、悲しみ、苦しみ、送ったあとも様々な後悔が強く残りました。それが重症のペットロス(猫をペットだとは考えておらず共同生活者だと思っていますが)に陥ることとなってしまいました。JJの悲しみから立ち直るのに3年もかかりました。その間、写真を見ることもできませんでした。数ある後悔の中でも最後の方に、すがる思いで別の病院に行ったことは大きな悔いとなって今でも思い出すと辛くなります。そこでJJは強引な医師と看護師に雄猫としての意地を毅然として示し、反抗しました。そのことが今でも忘れられません。胸が痛くなるのでまたいつか詳しく語ります。

それなのに、そのページに多くの皆さんがアクセスしてくださることに複雑な想いを抱いています。それに関しては、その記事の文頭に補足を加えたいと思っています。死期が迫っても見境なく病院を頼ってはならない、死ぬのは当たり前の事だから、関わる人間はその猫が望む逝き方を理解し、できればそれに従って無理に人工的なことを加えない、与えないというのが今の私の考えです。はるかさんにはそれが自然に出来ました。彼女が切望した野山で果てるということはさせてあげられなかったけれど、その想いを十二分に理解をし、私の膝で眠るように静かに逝きました。JJの時は何も分からず知識もなく、あたふたと行動し、愛する猫を最後まで余計に苦しませてしまったという悔いがあります。

猫が居ない生活に少しだけ慣れてきたところです。旧宅に餌を求めて毎日私が来るのを待っている超狂暴な猫(♀)に手作りご飯を作って与えることが楽しみとなっています。私はこうして再び猫に助けられているのだなと感じます。私の車が着くと、ニャーニャーと絶叫する元気な女の子です。このトグちゃんのことはまたお伝えいたします。狂暴すぎて撫でることもできませんが、エサを与える私も食べるトグちゃんも、winwinの関係です。猫の声が毎日聞けるだけでも嬉しいです。また私は猫に助けられているなと再確認しています。
それでは今夜はこの辺で。 良

| | コメント (0)

2019年8月 5日 (月)

また身近な猫が召されました

こんばんは。
昨夜、遅くにブログの更新をし、アップしようとした時に長女からメールが入りました。猫が逝ったとの知らせでした。
その猫はアメショー×スコティッシュフォールドのオス猫(19歳)です。今月の1~2日、一家は留守にするのでいつものように猫係を引き受け、留守宅に出向いたばかりでした。2日の夕方、眠り続けるので私は帰宅しました。その夜に一家は帰宅予定でした。ところが帰宅して娘が愛猫に異変を感じました。まっすぐに歩けない、瞳孔が開いているなどです。すぐネットで調べると神経障害が起きているようだと、翌日の3日には朝から病院へ連れていきました。すると、すでにいつどうなるか分からない状態との診断で、腎不全があるので静脈からの輸液を時間をかけておこないました。さらに4日も朝から輸液に連れて行きましたが、帰ってきた時には体が固まったように動けなくなっていました。「今夜、もつかどうか・・・」そんな不安を抱いて一家で過ごしていた日曜日の夜更け、その子は逝きました。そして今日の午後七時から火葬をおこないました。

その男の子が生まれたのは2000年です。火葬業者さんによるとスコティッシュフォールドで19歳は驚異的なことだとのことでした。愛玩用の猫の為、性格もよく、可愛い猫でした。一家に愛されて19年を生き、はるかさんと同じ所へ旅立ちました。

不思議ですね。この記事を書き始めたら、また突然に蝉がベランダで大きく鳴き始めました。おまけに今日は二匹居ます。はるかちゃんと、きのう旅立ったごろちゃんでしょうか。猫と蝉。無関係のような生き物たちです。しかし私が猫の事を書き始めたら、やかましいほど鳴き始めました。本当に不思議です。おやすみなさい。  良 10:40PM

| | コメント (0)

2019年8月 4日 (日)

愛猫が逝って1ヶ月

はるかさんが召されてから今日で1ヶ月です。もうそんなに経ったのだと驚きます。

はるかさんが逝ってから、夜、ベランダに蝉がよく来ます。それも私がこのブログを書いている時、彼女のことを考えて沈んでいる時、そして節目に当たる日の時に、蝉が大きな音を立てて存在を伝えてきます。いま現在も蝉が居て、時折、大きな羽音を立てて私に何かを伝えているようです。猫だったはるかさんは、今は変幻自在、いろいろなものに姿を変えて音で伝えてくれているように思います。蝉が来るのは、いつも彼女の事を綴っている時です。不思議ですね。 おやすみなさい。 良

| | コメント (0)

2019年8月 3日 (土)

猫も説明のつかない事柄を死後におこなう

こんばんは。暑いですね。室温は只今29.6度、湿度72%。風が少しあるので、この程度なら許容範囲です。

まもなくはるかさんが逝って1ヶ月ですが、今日は亡き夫の15回目の命日に当たります。それでカレーを作りました。彼は私が作るカレーが大好きだったので。でもベジタリアンに近い食生活の今の私が作るのはベジカレー。彼は不本意かもしれません。

逝った猫たちが音や陰で現れるのを何度も経験してきましたが、もっと回数が多いのが亡夫です。彼は死後に凄い力を得たのか、数々の不思議なことを起こしました。ココは猫のブログなので、それに夏向きとはいえ、そういう話が苦手な皆さんも居ることでしょう。ですからそれはまた折があればということに。人間も猫も死後に伝えてくることは私には珍しいことではありませんが、先日のテレビのリモコンがCDのハンディケースの上から突然に滑り落ちたのには驚きました。やっぱりはるかちゃんはスゴイ猫だったんだと改めて思いました。

スゴイ猫と言えば、こんなこともありました。亡くなった翌日に火葬車に来てもらって荼毘に付しました。車の台に乗せ、花とともに火葬される直前に手を合わせて拝みました。そして業者さんによろしくと言い、彼は扉を閉めました。一時間弱で終わりますからとの言葉に、いったん部屋に戻ることにしました。マンションの敷地内を歩き、私の住む棟に行くのに階段を降りなければなりません。階段を2~3段降りた時、左脚の膝に激痛が走りました。あまりの痛さに思わず立ち止まり、膝をさすりました。私は生まれてこの方、膝に痛みを感じたことはありません。その日も膝の具合が悪いなど無かったので驚きました。しかしその痛みはまさに激痛という言葉がふさわしい強い痛みでした。こんなに痛むのなら明日は病院かなと立ち止まったまま考えていました。けれど階段に立ち止まっていても仕方が無いと再び降り始めました。

不思議なことに歩き始めるとその強い痛みが消えたように無くなりました。まさか、あんなに痛かったのに急に無くなるなんてありえない。明日になればもっとひどくなっているかもしれない。そう考えながら部屋に戻りました。ところが部屋に戻っても特に痛みは感じず、いつもと変わらぬ状態で普通に部屋の中を歩いていました。今頃、燃えているんだろうな。そう思うと切ない気持ちになりました。悲しくなりました。そして1時間後、火葬車まで戻りました。猫が好きすぎてこの仕事を選んだというその業者さんは「この子は凄い子ですよ。立派に残っていますよ」と言ったのです。開かれた扉の向こうに横たわるはるかちゃんは、見事に骨格がすべてわかる状態で、お骨になっていたのです。

しっぽの関節が連なり、腰骨も大腿骨もしっかりと残り、肋骨、肩甲骨、前脚の骨も爪も歯も、そして頭蓋骨はまったく崩れずにそのまましっかりと残っていたのです。それは美しい骨でした。美しく横たわった22年を生き抜いた立派な猫の姿でした。私は感動を覚えました。丁寧に骨を箸でつまんで骨壺に入れ、最後に見慣れた犬歯(牙)を入れてから、頭蓋骨を載せました。みごとな猫の、みごとな骨でした。そのまだ温かい骨壺を胸に抱いて部屋に帰りました。本当に死んでしまったんだな。そう思いました。

膝の痛みの事はきれいに忘れてしまっていました。夜になって、あの痛みは何だったのだろうかと考えました。そしてふと思いました。あれは、はるかちゃんだったかもしれない。火葬車の中で火が点いた瞬間だったのではないか。今から骨になります。ありがとう、さようなら。そう彼女が私に伝えた瞬間だったのではないだろうか。実は膝は痛めたことがないけれど、私の弱点は左脚全体なのです。30代で椎間板ヘルニアを患い、その頃から左脚が弱くなり、今でも疲れやすいのが左脚でした。でも強い痛みが膝にというのは初めてで、それ以後は同じことは起こらず、あなたの左脚の弱さをわたしが持っていきますという、はるかちゃんからの合図だったようにも思います。ありがとう、はるかちゃん。

私はこの度は重症のペットロスに陥ることは無かったようです。最初の十日間ほどは本当につらかったです。悲しかったです。今は「頑張ってるよ、はるかちゃん」と語り掛け、出かける時、帰ってきた時、何かする時、まるで部屋に誰か人が居るかのように、はるかちゃんに語り掛けています。寝る前は、お骨を胸にしばらく載せます。そして語り掛けます。車の中では相変わらず大声で呼びかけています。正直に言えば、私はJJの時ほどではににせよ、かなりのペットロスになるのではと、鬱の薬も多めに貰ってありました。しかしやるべきことが多くあり、その為に人と接することも増えているせいか、‘ドツボ’にはなりませんでした。思えば息子のJJが11歳で逝った時、私は毎日泣き暮らし、ロスから脱するのに3年もかかりました。その間、私が泣いていれば彼女が頬や手を舐めて慰めてくれたものです。その彼女も逝ってしまい、音でも不思議な現象でも、影でも、何でもいいから伝えてくれると私はとても幸せです。

長くなりました。皆さんにご報告があります。これまでのメインブログを休止し、こちらに猫の事など綴っていきます。ただ、猫がもう居なくなったのに何が書けるのだろうかとは思います。好きな音楽や、猫から離れた話題も入れるかもしれません。私の中には過去の猫たちや猫にまつわる話は山ほど潜んでいると思っています。書くことでロスから回復すると思います。そういう意味では皆さんにお世話になっています。ちなみに‘ペットロス’という言葉、仕方なく使っていますが、私は関わってきた多くの猫たちのどの子も‘ペット’とは思っていませんでした。共同生活者。そう思っていました。猫は猫らしく。この私のポリシーをみごとに満たしてくれたはるかさんの、みごとな生き方でした。

読んでくださってありがとう。おやすみなさい。  良

 

| | コメント (0)

« 2019年7月 | トップページ