2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

« 『シェーグレン症候群』について | トップページ | 『優先順位』はむずかしい »

2011年9月24日 (土)

『長くて短く 短くて長い時間』にすることいろいろ

ひとつ飛んで前の二回が『長い時間』『短い時間』と連載のようになった。本当は題名をそれぞれ『ベッドの上の長い時間』『ベッドの上の短い時間』としたかったが、やめておいた。ブログを長年やっていると、検索で何がヒットし、何がヒットしないのかがわかっている。人びとが検索するとき、タイトルによって訪問するかどうかを決めるところが大きい。(このブログは情報提供の場ではないので、多くの人の来訪を切望している訳ではない。単なる私的な記録だが、もしも面白ければ来られたし) したがって、そのようなタイトルをつければ官能小説か何かと勘違いをした見知らぬ人ビトがわんさと訪れるやもしれぬ。ゆえに‘ベッドの上の’をカットした。ベッドはベッドでも、私の場合は病弱系ベッドである。艶っぽい方面を期待された方を落胆させては申し訳ないので、しぶしぶそうした。説明が長くなった。どうでもよいことではあるが。

ではベッドの上での長い時間、いったい私は何をしているのだろう。「あぁ、しんど」と、バタリと倒れ込んだとき、無常の喜びを感じる。体が楽になる瞬間に「あぁ、極楽」と思うのだ。この倦怠感については持病のもつ最も厄介な症状でありながら、緩和できるものはステロイド以外にないのである。もちろん増量はしたくないので、だるさとは生涯なかよく二人三脚でいくよりほかに道はない。それはともかく、極楽だぁと思ったあと、ベッドでの時間を何をしているのか?これはカメラでも据え付けて、一日じゅう動きを撮ってみればいちばんよくわかる。観てみたいものである。きっと私は「コレです」と言えない(言うほどのことでもない)事柄をいろいろとしているのだろう。ここ数日の間にしたことを思い起こしていくつかを書き連ねてみる。

折しも秋場所開催中につき、元気であってもなくても場所中はほとんどベッドの上で観戦している。以前は幕下の取り組みが午後一時から観られたのが、現在は放送がなくなってしまい、午後三時過ぎから六時まで相撲を観る。そのため体調いかんに拘わらずその時間は元気でもベッドにいる。しかし、なんかかんかしている。(←関西弁「何かをかならずしている」の意。「なんやかや」とも言う。)今日は前日に作成した文書をメール便で送るため封筒に宛名書きをし、同時に娘に果物を送る伝票を書いたりしながら十両あたりを観ていた。

それからキャットフードを剪定鋏で切り始めた。これは前からダッコのためにしていたことだが、彼女は超高齢猫用トロトロ缶詰が主食になり、その必要がなくなった。けれども今度はじぃじぃが今までのフードをよく噛めないのか吐くようになり、彼のために一粒ずつこまかく切っている。左肩や腕がひどく痛んだときは小さなものをつまむたびに激痛が走り、これが最もつらい仕事だった。しかし自己リハビリを頑張った甲斐があり、現在はこまかい作業にも肩周辺の筋肉が対応できるようになってきた。餌を切っている最中にも首を突っ込んで食べにくるじぃじぃを叱りながら、せっせと塩まきの間に切っている。よそ見をして切っていると指先を怪我するので、切るのと観るのはきちんと分ける。制限時間いっぱいになれば取り組みをじっと観て、「うわぁ」とか「あぶなっ」とか「やった」などと鋏を片手に叫んでいる。じぃじぃの妨害に耐えながら容器にそこそこフードがたまると別のことをする。

手を洗ったあと寝ころび、「極楽~」とふたたび感じ、やおら腹筋運動など始める。これはテレビを観ているときによくすることだ。しかし制限時間いっぱいになるとやはりじっとして勝負を観る。このとき、わざとしんどい角度で止まって観ている。そうすると腹筋がふるえて効果的だ。さらに久しぶりにパックでもしようと洗面所へ行ってパックを取ってくる。そして塗りたくり、脚を上下させたりクロスさせたり静止したりして腹筋運動をしながら白い顔で観戦している。そんな飼い主に猫は慣れているのか、ときどき白い顔になるが少しも驚かない。ちなみに私は病弱系だが体内組成年齢は33歳と出る。体重やサイズも若い時と変わらず、体型にもあまり変化はない。努力をしているという意識はない。このような性分と行動パターンが理由かもしれない。動けるときはそれがうれしい。

そのほかベッドの上でよくすることを挙げれば好物の枝豆を枝からちぎりながら観ているし、爪を切ったり洗濯ものをたたんだり、頭皮マッサージのようなこともする。何もしないで相撲だけを観ることがどうしてもできない。(これを昔は貧乏性と呼んだが、今ならボンビー性か)あるいはベッドテーブルの上を片付けはじめたり、スタンドの埃を拭いたり、上体を乗り出して小さな手ぼうきでベッドまわりの床を掃いたりもする。猫が喧嘩を始めたような声が聞こえると、パック中以外は硝子戸をあけ、飼い主じきじきによその猫を威嚇する。途中でコーヒーが飲みたくなったら、取り組みを気にしながら急いで湯を沸かして淹れ、カップ片手に運動会の父兄競技のスプーンリレーの要領で、手は動かさずに小走りに素早く戻ってまた観戦。相撲の期間中はとくにベッドに強力に引き寄せられ、行き来するスピードも速い。観戦中は貼り着いたように動かない。

相撲観戦中ではないときにすることは、郵便物の開封や整理、不要な郵便物の選別および処分、その前に集めて送るため使用済み切手を切り取っておく、ノートパソコンでの作業、カメラ関連のこと、そしてそして読書である。書くことである。それから今あなたが読んでくださっているブログを書いたりもベッドの上だ。すべてが My Lovely Sunoko Bedの上でなされている。何かしてはベッドにもどり、ベッドに長くいなければならない日には多分に身体がつらいのだが、出来るだけ坐ろうと努力して何かをしようとしている。こうして私の短くも長い一日はくり返される。動きまわって家じゅうをきれいにしたりなど、望んでいることが充分にできず、外での買い物を楽しんだり書店に行くこともできなくなった。しかしネットという強い味方があるので不自由は感じない。このように長くて短く、短くて長い活動時間で、今のところ何とか「自活」(=自立生活)ができている。行き届かないことは多々あれど、この身体で自活していることに満足している。

人から見れば単なる‘ぐうたら’に見えるかもしれない私の生活だが、動けないものは仕方がない。現在は仕事をしているわけではないからステロイドを増量してまでもっと動こうとも思わない。私とてこの自分を受容するまでに時間がかかり、葛藤はいろいろあったのだが、よく動けた頃を懐かしんでもなんにもならない。かくして私はベッド以外で活動できる時間が短いことにも不満を覚えなくなった。素早くものごとをすることに磨きがかかり、あとはぐうたらを決め込んでベッドの上で長い時間を過ごすことに対して自分を責めなくなった。それもよしと思うようになってきたのだ。まことあきらめまじりの発展的慣れというのは恐ろしいものである。
今日も私はベッド以外で素早く動き、ベッドの上ではのんびりまったり過ごしている。これこそが体調維持の唯一の方法だ。今は‘ぐうたら’に見えても仕方がない生活になってしまった私だが、かつては人一倍動く人間だったことを最後に付け加えておこう。一応はメンツのために。 注:面子(メンツ・体面、面目の意)は中国語より日本語化された言葉。

体調がよくなってきたので、複数の更新ができた。小説も少しずつ進んでいる。
相撲が面白い。今場所、琴奨菊が頑張っている。魁皇から何やら言葉を貰ったようだが秘密らしい。ぜひとも大関になってくれということだろう。目指せ大関、がぶり寄り琴奨菊! ところで今頃になって気がついたが、今日の記事は『その日が来るまでにしておきたいこと』とは無関係なことばかりになっている。それもよしとしよう。

« 『シェーグレン症候群』について | トップページ | 『優先順位』はむずかしい »