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2009年8月

2009年8月29日 (土)

「ハピネス・マサオ」9話更新

遅くなりましたが、9話を掲載しました。よろしかったらお読み下さい。
私は夏風邪をひいて寝ていますが、何とか書けました。体調がよくなり、勘がもどればどんどん書きますからね。 
さて皆さん、明日は選挙です。行きましょうね。政治に参加するのはまず選挙から。必ず行きましょう。それでは また。早く治します。(^o^)丿 

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2009年8月27日 (木)

リコリスです

0825001 「猫庭」でも紹介しましたが、左はリコリスという花です。いろいろな色があるのですが、これは薄いクリーム色の花びらで、花びらの淵がチリチリっとwaveかかってる。ヒガンバナの仲間です。そういえば似てるでしょ。

生い茂った葉は向こう側のアガパンサスの葉で、リコリスはヒガンバナと同じで葉がありません。茎と花だけ。球根は5つで、五輪咲きそうです。きれいだな。♪

私は試験の翌日はカラ元気だったようです。その後、どど~んとだるさが訪れて、2~3日動けませんでした。涼しいし、きのうあたりから何とか起きています。長期間にわたる疲労がたまっていたのでしょう。まだ取れてないかも・・。(-"-)

小説も書かなければと思いながらしんどくてね・・。でも、まもなく書き始めようと思います。ここで皆さんにお願い。書くときは集中しなければなりません。メールその他お控えくださいますようご協力くださいね。(^.^)
それでは今夜はこの辺で。

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2009年8月24日 (月)

六甲ライナーより

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きのうは最終科目の試験で神戸まで行ってきました。試験会場は六甲アイランドにあるファッションマートというビルでした。猛勉強したお蔭で、バッチリできました。(^_-)-☆

私は外出することがほとんど無く年がら年じゅう右近庵にいますから、都会へたまに出かけると、何もかもが珍しくてまるで遠足へきた子どもです。JR住吉から出ている六甲ライナーに初めて乗りました。むろん無人のモノレールです。ホームに停車している車輌に乗り込むと、ほとんどが横に長い席ですが、前のほうに少し一人掛けの椅子席がありました。都合よく、一番前の席がひとつあいていました。ラッキー♪とばかりに坐るとクルマ止めがあって前は行き止まり。そうか、コレは最後尾なんだと理解するやアナウンスが聞こえて発車。スイ~っと後へ下がっていきました。あれあれと思うも、それでも景色がよく見えて満悦でした。いいな海。右近庵からは山はたくさん見えるけど海は見えないからね。

試験を終えてふたたびアイランドセンターから停車中の車輌に乗り込みました。こんども同じように一番前があいていました。またまたラッキー♪。すわとそこへ一直線。前を見るとレールがずっと向こうまで延びています。よし、こんどは先頭だいっとばかりカメラをゴソゴソ出してきました。アナウンスが聞こえて“しゅっぱ~っつ!” あれれれれれ。また無人モノレールは音もなく後ろへスイ~っと引いていくではありませんか。こっちが後だったんだ。また・・・。さすがに残念な良クンでしたが、めげずにシャッターチャンスを狙って後へ後へと運ばれておりました。さっきの赤い橋を写すんだッ。運ばれながら写した一枚がコレです。メガネ取り替えるの面倒で風景モードにもせず、明るさの調整もしなかったので(オートだと晴天の日などは暗くする機能が自動的に働いて暗く写る)、少々明るく加工しました。海はいいね。神戸はいい。ふるさとは、やっぱりいいよ。でも、もう私の知らない神戸ばっかりだ。(-"-)

ずっと勉強を続けていた最終教科のレポート&試験が終わりました。寝ないで早朝から家を出て受験、さすがに家に帰ると動けないほどに疲れていました。これはここ何ヶ月かの勉強疲れもあると思いますね。さいわい今日はよく眠ったので元気です。久々に庭をくまなく調べると、雑草が生い茂っており、リコリスという花がきれいに咲き、ユリもいくつか真っ白な花を咲かせていました。今日は涼しく、雑草引きも苦になりませんでした。サツマイモも元気です。ツル返しという作業も少しばかりして満足、満足。さぁてっと。次は何をするんだっけ・・・。そうか小説。うむ、途切れた気持ちの流れをまず取り戻すところから始めましょうか。それでは今夜はこの辺で。(^o^)丿

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2009年8月18日 (火)

お知らせ

残暑が厳しい昼間ですが、朝夕は気温が下がり過しやすくなりました。先日、右近庵の庭に赤とんぼが群れをなしてやってきました。毎年、かれらの姿をみると、夏も終わりだなぁと感じます。
さて、お知らせです。都合により、サイト・ブログの更新をしばらく休みます。下旬には出てくることができると思います。残暑厳しき折、どうぞ皆さん、ご自愛ください。

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2009年8月15日 (土)

終戦の日によせて

今日は終戦の日です。64年前の今日、日本国民は玉音放送によって敗戦を知りました。しかし64年を経た現代に生きる私たちの日常生活で、戦争が語られることがほとんどありません。その理由のひとつに、私たち戦後生まれは、自国の戦史について学ぶ機会がなかったことが挙げられます。したがってみずから学ばなければ、知ることができません。私の亡父も出征しましたが、帰還しました。父の口から戦争が語られることはほとんどありませんでした。実際に戦争に関わった人たちは高齢か、すでに他界されています。語る人は減少するばかりです。だからこそ、語り継ぐために私たちが学ばなければならないのです。

私がここ数年間、戦争について知りたいと切望した背景には、今の日本の現状があります。親が子を、子が親をいとも簡単に殺してしまうニュースに私たちは驚かなくなっています。苛立つからと誰でもいいから行きずりの人を殺したかったという輩がいます。親は子を虐待して死なせ、子どもを養育できない親がふえていると聞きます。悲しいことに青少年や、時には幼い子どもまでが刃物で人を傷つけたり殺めたりすることも、昔ほど驚かなくなりました。また、年間の自殺者が3万人を越え続けるという他の先進諸国には見られない現象も、この国では起こっています。これら「命」を軽んじる狂気の危機感から、何がそうさせたかを私は考え続けています。そうして、戦争のことを知らないのが関係するのではないかと気がつきました。かけがえのない命を差し出した兵士達、親を子を、ふるさとを国を守ろうと捨て身で戦った兵士達。その熱い思い、ひとつひとつの尊い命。現在の世の中を彼らが知れば、64年後にこんな国になるならば、命など捧げる気も失せたかもしれません。

若くして死にたくはないのは現在も戦時下の異常事態でも同じです。しかしながら、先の戦争では310万人の犠牲者を出しました。多くの人たち、とくに若者達の命が無謀で非人道的な方法で散っていった悲しみに、私は痛恨の思いを抱きます。彼らはなぜ死ななければならなかったのか。現代の「死」に比べ、あまりに純粋で重い彼らの死について、私たちは考えなければならないのだと思いませんか。こんなことを言うと、やれ右よりだと囁かれますが、そうではありません。私は右よりでも左よりでもありません。それは普段の発言からお分かりのことでしょう。私は一人の人間として、正確な自国の歴史を知りたいと願うだけです。そこから反省や教訓を得て、惨憺たる日本の現状に活かすべきことは多々あると考えます。戦争はいけない。皆が口をそろえて言います。しかし、何がどういけないのか、過去にどんなことがあったのか、特に学校で教えてもらえなかったことについて、私たちはもっと知ろうとしなければならないのです。

若き命が散った典型が特攻隊です。しかし、この特攻隊も、一般的には航空機のみしか知られていません。特攻隊について、以下にウィキペディアから一部引用いたします。

『特攻(=特別攻撃)とは、爆弾を搭載した軍用機や、爆薬を載せた高速艇等の各種兵器が、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たりする戦法である。太平洋戦争末期の日本で、陸海軍あげての大規模な作戦として実施されたが、乗員が生還する可能性は皆無に等しく、(突入失敗で海面に激突し、奇跡的に助かった航空機搭乗員の例もあるが極めて稀なことであった)「突入」すなわち「死」を意味すると言えた。

背景には、太平洋戦争末期における日本軍の航空機の数的不利と航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質の低下、近接信管(VTヒューズ)やF6F艦載機に代表されるアメリカ軍やイギリス軍の対空迎撃能力の飛躍的向上により、日本軍の航空戦力が劣勢になって、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったことがある。さらに台湾沖航空戦の結果、フィリピンでの稼動航空機数が激減し、少数の兵力で有効な戦果を挙げるために最も確率の高い方法として、やむを得ず実行されたのが始まりである(部隊編成は19年初秋には始まっていた)。

最初の特攻隊として艦船に突入し軍神と畏敬された関行男中佐レイテ沖海戦より始まった特攻は、硫黄島やウルシー・サイパンへの作戦を経て、沖縄戦において最高潮に達した。沖縄周辺に侵攻したアメリカ海軍やイギリス海軍、オーストラリア海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦大和以下の艦艇による“水上特攻”や回天、震洋などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。』 <Wikipediaより>

「特攻」というと『桜花』に代表される航空機ばかりが知られています。しかし、先日のNHKスペシャルで、元海軍の司令官達の400時間にわたる証言を聞く中で、特攻は海軍が最初だったと知りました。『回天』という魚雷にひとり乗り込み、海中から敵の戦艦に近づいて爆破するものです。これは成功率わずか2%だったといいます。また『震洋』はひとり高速艇に爆薬を積み込んで海上を進み、敵の船を爆破するものでした。これらに乗り込んだ兵士は皆若く、航空機の特攻予備生や予科練の学生も多かったといいます。桜花ばかりではなく、これらはみな特攻隊です。反省会で証言をした元士官達は、非人道的な作戦だったが自分たちの力でどうすることもできなかったと告白していました。この悲惨な全特攻隊で、約6000の若い命が失われました。

戦況が悪くなり、敗戦の色濃い時期に、一人の人間が体当たりをして敵にダメジを与える無茶苦茶な戦法に、当時、世界中は驚いたといいます。最初は効果もあったようですが、いま私たちが考えても、個人が捨て身で激突し続けて戦況が大きく良くなるとはとは思えません。これは最後の手段ではなかったかと思います。国のためと尊い命を捧げた各特攻の兵士達を思えば痛恨の極みです。特攻作戦が熾烈となった時、すでに敗戦の予兆があったにもかかわらず、日本は降伏の姿勢を国内外に見せませんでした。その後、本土への空襲、沖縄戦が始まり、ヒロシマ、ナガサキの原爆へと続き、本土が壊滅的になった時点でやっと降伏しました。もっと早ければ、これら多くの命は失われずに済みました。結果論になりますが、そう思うと無念でなりません。

ここではこれ以上語るのは避けたいと思います。今日はすべての戦争犠牲者を追悼する日です。「ありがとう」なんて言えない。「ご苦労様」でもない。「安らかに」も違う。貴方がたの無念と勇気を、きちんと受け留めるのが私たちの務めです。戦いの末に命を落とした兵士達のことを思うにつけ、胸が締めつけられる思いです。私は貴方がたの失われた尊い命を悼みます。今はそれしかできません。流行歌手の歌をここで持ちだすことすら軽いことのようで気が引けますが、『桜花』で散った兵士たちとともに『回天』『震洋』その他、戦いのあらゆる場所で、あらゆる状況で命果てた人たちを悼むため、音楽の力も借りて皆さんに訴えることが出来ればと思います。戦争を二度と起こしてはならない。過ちは、もう繰り返してはならない。そのことを強く願いつつ手を合わせたいと思います。

哀悼の歌 “Tears” <X  JAPAN >↓

http://www.youtube.com/watch?v=4IvWeaLhwbU&feature=related

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2009年8月12日 (水)

雪をどうぞ

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暑いですね。皆さん、いかがお過しですか。
大雨やら地震やら、災害が多発し、太陽があまり出ない夏です。
しかし暑いことに変わりなく、今日などほんとうに暑かったです。

そんな暑さを少しでも解消できるかと右近庵裏、雪の棚田です。
もちろん私は南半球に住んでいるのではなく、大阪府です。
これは昨年一月に撮ったものです。少しだけ涼しくなってください。

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2009年8月10日 (月)

雨にご注意を

兵庫県作用町や各地で大雨の被害が出ています。犠牲者も出ています。私の住む近畿地方では、紀伊半島でまもなく大雨、その影響があると思います。その後、雨は東海、関東へ昇ります。皆さん、くれぐれもお気をつけください。右近

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2009年8月 9日 (日)

ナガサキ

浦上のマリア様へ そして皆様へ

数年前、長崎の旅から帰って数日後のある真夜中、眠っていると何かの気配を感じました。目をあけると白い裳裾が目に入りました。横を向いて眠っていた私の目に、白いドレープが音もなくゆれているのが見えました。これは・・・!

見上げるとマリア様でした。黒く焼け焦げた浦上天主堂のマリア様でした。貴女様の御目は黒く虚ろでしたが、私を見おろすまなざしは哀しげでした。けれども私は恐ろしく、あわてて反対側を向きました。怖いので身を固くして背を丸めて震えていると、貴方様は信じがたい強い力で私の肩をつかんでそちらを向かせようとされました。

申し訳ありません。私の頭は冴え渡り、この現実からどうすれば抜けられるかと冷静に考えながら脅えていました。この世のものとは思えない強い力に抗い、私は幽霊や亡霊に出会ったときは念仏を唱えればいいと教わったのを思い出しました。生家の浄土真宗の「南無阿弥陀仏」を何度かくりかえし、唱えながら、マリア様に申し訳ないとも思いました。肩を掴む強い力をようやく感じなくなり、こわごわふり向くと、貴女様のお姿はありませんでした。

私は長崎への旅で、原爆を投下された地に立ち、浦上天主堂や資料館を訪れて、あらためて悲惨さに心がひどく痛みました。樫の木でできた貴方様が、原爆で黒焦げになり、頭部だけになってしまったことも、今更のように悲しいことだとパンフレットを見て感じました。その貴方様が、私のところまでお越しくださったのだと後で考え、なぜ私は怖がったりしたのだろうと恥じました。

あの日、貴方様が私の枕元に立たれたのは、きっと貴方様おひとりではなく、大勢の犠牲者の皆様もご一緒だったのでしょう。その頃まだ健在だったHiroshiが逝き、私は亡くなった人と魂の交流が出来ることを知りました。戦争の犠牲者のかたがたのことを思うと、お会いしたことがない皆さんが、悲しい思い、口惜しい思いを音で伝えてくださいます。

あのとき、貴方様は空洞の目で、私に何を訴えておられたのでしょう。忘れてはいけません。ナガサキを、ヒロシマを。おそらくそうではなかったのでしょうか。8月になると「ヒロシマ」が、「ナガサキ」がやってきます。終戦の日も訪れます。しかしながら、盆休みに遊ぶことや帰省することばかりで、それらについて考える人たちが減っているのが現状です。私は残念です、マリア様。

お父さん、お母さん、子供たちに原爆を語ってください。戦争を語ってください。子供たちの未来を守るために、もっと原爆を、戦争を学びませんか。過去に何があったかを知り、伝えていくことこそが命を守ることです。命を大切にすることです。私たち戦後に生まれた者も、もっと原爆や戦争を学びませんか。世の中がすさみ、戦争もなくならないのは、歴史からきちんと学んでいないからでしょう。日本という国は、なぜもっと、国全体で原爆の日を考えないのか不思議です。世界で唯一の被爆国だというのに。

お父さん、お母さん、遊びに出かける車や電車の中ででも教えてください。おじいちゃん、おばあちゃん、お孫さんに64年前の今日、長崎で10万人もの人が一瞬の原子爆弾で地獄と化し、亡くなったことを教えてください。今私たちが享受している「平和」は、それら理不尽に命を奪われた人たちの犠牲の上にあります。今も後遺症や悲しみで、苦しむ人が大勢居ることを、どうか子どもに孫に伝えてください。そうすることが可愛い子どもを、孫を守ることにつながります。

今日までヒロシマで亡くなった犠牲者の数・・・26万3945人

今日までナガサキで亡くなった犠牲者の数・・14万9266人

マリア様、浦上のマリア様。貴方様はそのお姿でこれからも原爆の悲惨さを訴えつづけていかれるのですね。貴方様のお姿は美しく逞しく、凛々しく神々しく、涙がこぼれそうなくらいです。枕元に現れてくださったのは、これからも考え続けよと私に仰ったのでしょう。この次に現れてくださったとき、私は決して脅えたりはいたしません。

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2009年8月 7日 (金)

ペンタスという花

0801002 ペンタスです。

“penta”は“5”を表します。

星型の五枚の花びらから
名づけられたのでしょう。

右近庵に仲間入りです。

暑い日が続いています。

どうぞ、お元気にお過し下さい。

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2009年8月 6日 (木)

ヒロシマ

   
   「絵本」 
          

          峠 三吉

   

   たたかいの手に 傷つけられた
  
  瀕死の母親にみせる その子の絵本

   
   たかい格子窓から 一筋の夕日が
 
  負傷者収容所の 冷たい床に落ちてとどまる

   
   火ぶくれの顔のうえに ひろげ持ち
  
  ゆっくりと繰ってやる 赤や青の幼い絵
  
  古いなじみの お伽ばなし

   
   カチカチ山の狸のやけどに 眼をむけた
  
  隣のおとこの呻きも いつか絶え
  
  ぼんやりと見つめていた 母親のめに
  
  ものどおい 瞼がたれ

   
   苦痛も怨みも 子につながる願いさえ
  
  訴えぬまま 糞尿の異臭のなかに
  
  死んでゆく
  
  しんでゆく

         

            ※ 峠 三吉 原爆詩集「にんげんをかえせ」より

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2009年8月 3日 (月)

「いちご白書」をもう一度

Hiroshiが逝って今日で五年です。「平成道行考」を立ち上げて、わずか1年9ヵ月後に逝きました。彼がその労を惜しんでいたら、皆さんとの出会いはありませんでしたね。その彼の好きだった曲を五回目の命日に一緒に聞いてください。「就職が決まって 髪を切ってきたとき もう若くないさと 君に言い訳したね」  この部分の歌詞が私は大好きでした。ではお聴き下さい。よければ一緒に歌ってください。あぁ、なつかしい。

 「いちご白書」をもう一度 

(バンバン歌・ 荒井由美作詞・作曲 1975年)↓

http://www.youtube.com/watch?v=T4RKmZz6_y4&feature=related

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