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2013年1月

2013年1月29日 (火)

Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band(フルアルバム)

いいのを見つけたよ。BeatlesのFull Album。今日はコレを。アルバム全曲が聴けて音質もいい。やっぱBeatles、いいね。このアルバムにも好きな曲がいっぱい。全部好きだけど、特に好きなのは1,3,4,5,6,7,9,10,11,12かな。収録全曲名を見るには「もっと見る」をクリック。選んで曲が聴きたいときは、その曲の所要時間の部分をクリック。(^_-) かけっぱなしでPC作業や他のことが出来てGoo。 ほかにも訳詞など掲載しているサイトがあるよ。素敵な画像がいっぱい。(^.^) (一部見られないものアリ) ところでこのアルバムのジャケット,、有名人がたくさん居る中で、なぜか左下に福助さんも。初めて見たとき驚いたなぁ。なんで福助さんなのかなぁと。もちろん持ってるよ当時のLPレコード。うん、Beatlesはいろいろ持ってる。ぜ~んぶ宝物。 (^_-)-☆
お蔭さまで私の指は少しよくなりました。だからちょっと出てきました。ありがとう。 手袋右近より

◎ “Sgt.Peppers Lonely Hearts Club Band” (YouTube by Matias Esteban  Thanks!)

◎ BEATLES 訳詩・動画など     ←(どなた様か分かりませんが、ありがとうございます。)

 

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2013年1月22日 (火)

お知らせ

夜になって右近庵は雨になりました。ふたたび積雪になる地域もあるということです。お気をつけください。冬の間、雪に覆われる地方にお住まいの皆様には、方腹痛いことを申しました。平素はご訪問ありがとうございます。近頃の傾向としまして英語でお読みの皆様がふえているということです。ふむ。現在、全体の三分の一くらいの皆様がEnglishReader様です。私など面白くも何ともない、地味でありふれた人間ですから、何がお気に入りで来てくださるのか不思議でお尋ねしてみたいものです。いえ、ありがたいことです。ありがとうございます。どなた様だか分かりませぬが。

また凄惨なテロ事件が起こりました。私は不思議に思います。宗教とは人々を救うもの。現代でも自他の命を重んじない宗教があるということを認めることができません。宗教上の対立があることにも納得しかねます。人を殺める宗教ならば、Imagineの歌詞のように、宗教も無ければよいのにと言いたくなってしまいます。本来、人々を救うはずの宗教から離れ、歪曲した別の理由で過激な集団が起こすテロは、今後、撲滅出来るのでしょうか。各国犠牲者の皆様を心よりお悼みし、般若心経を唱えたいと思います。

さて、しばらく記事の更新が続きましたが、しばらく休ませて頂きます。おもな理由は、手指がきかず不自由をしていることです。指関節は腫れ、第二関節から先の感覚がほとんど無く、モノを持っても落として割ってしまうなど、日常生活に不自由が生じています。文字はまともに書けず、キーを打つこともひと苦労です。身体のどの関節も今ひとつよくありません。そのため、この季節はおとなしくしていようと思います。ステロイドからの離脱も、主治医の先生によると冬に問題が生じれば服用に戻すということでした。戻したくないので、このところ少し無理をした分、ゆっくり休もうと思います。本を読んだり4Bで走り書きして遊んだり、それにするべきことも少しずつやりますか。身体は動きにくいのだけれど。今は相撲を存分に楽しみます。(‘とる’のではなく‘観る’方を) 大鵬さん、大好きでした。彼こそ大横綱という言葉にふさわしい力士でしたね。引退後も立派でした。本当に、お疲れ様でした。

別のブログへもお越しの皆様、いつもありがとうございます。今日はダッコの一周忌ですから更新しましたよ。よろしかったらお訪ねください。そちらを楽しみにしているとのお言葉をいただき、たまには更新したいと思っています。日々の短いよもやま話でよろしければ時々は出向きます→『わたしの猫と庭』

寒さはまだまだ続きます。しかし、今日、庭の片隅でフキノトウがいくつか芽を出しているのに気づきました。速度は見えなくても確実に季節は進んでいます。
悪い風邪には十二分にお気をつけください。それでは皆さん、ごきげんよう。  右近

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2013年1月19日 (土)

“6434”の竹灯篭

私は毎年1月17日の午前5時46分に、西の方角を向いてベッドの上で正座をし、黙祷します。東遊園地での追悼集会に来られた人々とともに犠牲者の皆様のご冥福を祈ります。自宅にて追悼に参加していました。17日に神戸に行ったことは過去にもありましたが、会場へ足を運んだことはありません。私ごときが訪れる場ではないと思っていたからです。今年、初めて会場を訪れてみて、遺族の皆様、被災した大部分の皆様が口にされることの意味を感じ取りました。つらい思い出が甦るということの苦しさを理解しました。私でさえ甦り、苦しくなりました。しかしやっと此処で合掌できたという気持ちにもなりました。

“6434”という数字の大きさ。実際にはその後に亡くなられた方々や、関連死と診断された方々を含めると、さらに数字は大きなものになるのでしょう。この数字は地震発生直後の犠牲者の皆さんの数です。この数字が定着し、毎年、この数の竹灯篭が“1・17”の文字を描きます。17日には夜明け前から竹灯篭に灯がともり、昼間も訪れる人々によって灯が絶えることはなく、暗くなると再び“1・17”の文字が浮かび上がり、午後9時まで灯されています。竹には寄贈された団体や個人の皆様のお名前が書かれています。

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これらのロウソクは、全国の寺社や教会、祭礼の会社などからの寄付が中心となっているそうです。新品も中古もあり、それら大量のロウソクを晩秋の11月頃に溶かして成型する作業に入ると聞きました。様々な形をしたロウソクを溶かし、竹灯篭用の小さな可愛いロウソクに変身させていくのです。昨年もその様子が近畿地区のニュースで放映されました。それまでは何気なく見ていた竹灯篭の灯りは、多くの人々の善意と労力によって成り立っていたと知りました。

会場を訪れた人で点灯を望む人には底が丸い小さなロウソクと、棒状の普通のロウソクが手渡されます。水が注がれた竹灯篭の、空いているものに小さなロウソクを浮かべ、お借りした棒状のロウソクで隣の竹灯篭から貰い火をして灯します。そして棒状のロウソクは、お返しします。Dscn5118_512
これらのことを私は昨年知りました。主宰の市民団体代表者様から直接お聴きする機会があったからです。東松島市の私の支援先の方がキャンドル作りを始められ、ロウソクを望んでおられました。神戸の追悼集会の竹灯篭を真っ先に思い出し、神戸市役所に電話をかけて尋ねたところ、主宰の市民団体様を紹介してくださいました。そして主宰者様がロウソクを東北に送ってくださったというご縁です。『神戸・市民交流会』の山川様ほか会員の皆様、ボランティアの皆様、今年もありがとうございました。18年めにして、ようやく私も竹灯篭の前で手を合わせることが出来ました。

◎ 「2013年1・17 鎮魂の祈り」 『FNNnewsチャンネル』より

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2013年1月18日 (金)

“1・17”の雪地蔵さま

昨日、神戸市中央区の東遊園地には、雪で造られたお地蔵さまが、東日本大震災被災地の地名が書かれた竹灯篭と共に設置されていました。これらは市内の神港学園硬式野球部の皆さんが中心となって作製されたそうです。雪の提供は鳥取県江府町から、あざやかな色のi灯篭は、岩手県宮古市田老町から寄贈されたものだそうです。雪地蔵さま、たくさん並んでおられました。皆様の気持ちがひとつになった温かい雪地蔵さまです。

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2013年1月17日 (木)

東日本大震災犠牲者の方々への竹灯篭

神戸市中央区の東遊園地で行われる追悼集会に行ってきました。
午前5時46分に到着するのは無理なので、午後2時46分に参加しました。その時間には東日本大震災の犠牲者の皆様を追悼する黙祷がおこなわれます。集まった人々と共に東北各地から来られた代表の皆様と、東の方角を向いて黙祷を捧げました。

この場所には追悼集会でおなじみになった竹灯篭に、東北の県名や町名が書かれたものが並んでいました。黙祷の後、ゆっくりとひとつずつ見せていただきました。神戸から東北を追悼し、応援する竹灯篭です。使用する竹は阪神大震災以来、毎年全国からの善意によって寄付されるものです。

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2013年1月16日 (水)

『阪神淡路大震災』から18年

明日の1月17日で阪神淡路大震災から18年になります。被災した皆様同様に、私もそれほどの年月が経ったと思えずにいます。生まれ育った家の近辺の凄まじい光景は、今でも心の中に鮮やかです。その16年後の2011年、再び巨大地震と津波が東日本を襲いました。東北の皆さんとは震災の痛みを分かち合い、交流が盛んなようです。今夕のニュースで知りました。神戸の「希望の灯り」から分灯した「灯り」をたずさえ、被災地陸前高田市からも追悼集会出席のため、皆さんお越しくださいました。ありがとうございます。

当時、私は大阪府堺市という所に住んでいました。まだ塾を運営して現役でした。夜明けにマンションの5階で大きな揺れを感じて飛び起きました。午前5時46分。すぐにテレビをつけましたが、震源地がどこかすぐには分かりませんでした。やがて神戸という文字が出て、すぐさま私は親兄弟に電話をしました。神戸市兵庫区に両親、長兄一家、姉一家が、垂水区に次兄一家が住んでいます。どこにも電話はつながらず、大きな不安に包まれました。しかし、どうすることも来ません。彼らが無事であることを願って連絡を待つしかありませんでした。

すっかり明るくなった頃、テレビでは恐ろしい光景が次々に映し出され始めました。それは目を疑うばかりの恐ろしい光景でした。神戸へ行く時に通っていた倒れた高速道路、圧し潰された家屋、横倒しになったビル、黒煙をあげて炎に包まれて燃え盛る家やビル・・。それらの映像は、奇妙な静寂さをもって迫ってきました。言葉を失い、何をどうしていいのか分からず、私はただ両親や兄弟の無事を祈るばかりでした。次兄から連絡があったのはその日の夜でした。被害が比較的少なかった彼の住む地域から、公衆電話でようやく連絡がとれたとのことでした。実家近くの小学校には遺体が続々と運び込まれており、まるで地獄だと兄。その言葉に愕然としながらも、身内が無事だったことを知り力が抜けました。

翌日になって長兄からも電話がありました。設置された電話に並び、やっとかけることができたとか。みんな無事だから安心しろ。それよりそっちはどうなんだ? 大丈夫。そう答えるのがやっとでした。まったくと言っていいほど何も変わったことのない私の日常を伝えることがと酷なことのように思い、それだけ答えるのがやっとでした。短い電話はすぐに終わりました。後で分かったことですが、あの状況の中、しかも厳寒で電気もガスも水も無い中を、大阪に住む私を案じる長兄の言葉に熱いものが込みあげました。こちらはまったく大丈夫。大変なのはそっちなのに。状況が見えないのは被災した当事者の人たちだけです。あの時も、東日本大震災の時もそうでした。最も見えて欲しい人たち、情報が必要な人たちには何も届かない。このジレンマに苛立ちました。当事者への情報をいかに迅速に確保するかは今後の大きな課題です。

危険だから来るなと言う兄に逆らわず、神戸に向かったのは1週間後のことでした。当時は健在だったHiroshiと共に、大きく迂回をして神戸に入りました。走れども走れども倒壊した家屋が続いていました。それはまるで終わりのない家の雪崩のようでした。涙は止まることなくあふれました。運転しているHiroshiも泣いていました。彼が幼いころ過ごした東灘あたりに来て、彼はこらえることが出来なかったようです。私は考えていました。いったい何人の人たちが亡くなったのだろう。天災とはいえ理不尽にも突然に命を奪われた人は、どれくらい居たのだろうか。相手が自然であるにもかかわらず、私は大きな憎しみを感じていました。私のふるさとをこんなにしたのは誰だ、たくさんの命を奪ったのは誰だ、と。実家の近辺でも死傷者が多数出ていました。

憎しみの対象は巨大直下型地震でした。阪神淡路大震災では激震の時間はわずか15秒から20秒ほどだったといいます。その短い時間に起きた地中からのエネルギーは町をことごとく破壊し、尊い多くの命を奪いました。しかし18年を迎える現在、被災した地域でさえ風化されつつあります。まして他府県の人たちが話題にすることも思い出すことも無いこととなってきました。あの震災では著しい速さで復興が進められたので、物的、人的な被害も速く忘れられていくように感じます。また、この度の東日本大震災から2年しか経っていないのに、もはや風化が案じられます。熱しやすく冷めやすい日本人。これは日本人ばかりではないと思いますが、あまりにも早く被災地から意識をそらしつつある現象に嘆いています。支援も備えもその時だけでなく、継続してこそ効果が現れるものだと思います。

『3.11』以来、各都道府県自治体は自分たちの所へ巨大地震が来たらどうするか、東日本大震災レベルの津波が来たらとシミュレーションづくりに躍起です。もちろんそれは大切です。しかしながら今後、自治体が計画的に進めていく事柄とは別に、自分自身で出来ることを怠っていないだろうかと危惧します。地域の防災に関する設備投資は個人では出来ることではありません。けれども個人が自身と家族のために出来ることは多くあります。阪神淡路大震災と同じ直下型地震の場合、出来ることは様々あります。一瞬で倒壊してしまうかもしれない家の補強、家の中で損傷させられることのないために家具の固定(特に重量のあるもの)、寝室はなるべく二階に、などです。地震が起こったら必要な品々や逃げる準備をしている人は増えましたが、いま住んでいる状態で本当に大丈夫かどうかということも津波を伴うプレート境界型の地震とともに考えておくべきだと思います。もちろんこれによる地震も自治体の防災は重要です。

脅すようですが具体的な被害について少し話します。実家のすぐ近くにある神戸高速鉄道の駅は道路の大規模陥没で瞬時に圧し潰されました。直前に通過した始発電車が無事だったのは幸いでした。広範囲にわたる道路の陥没に、直下型地震のエネルギーの恐ろしさを感じて背筋が寒くなりました。実家近辺で建っていたのは、大屋根を波打たせて堪えてくれた両親の住む家(全壊の診断で後に撤去)と、隣接の長兄宅、あとは2~3軒だけでした。古い家並みの町内は重い瓦と土壁が一瞬で崩れて人々を閉じ込めました。兄たちは近所の人たちを助けながら皆で避難したそうです。長兄宅は耐震の住宅で建物には被害がなく無事でしたが、ピアノが激しく跳ね上がって横転するほどの衝撃だったとか。向かいの丁では同級生宅の3階建てビルが横転、大火災も起きました。実家の向かいのマンションは駐車場が圧し潰され、車がみな挟まれて前部が空を向いて跳ね上がっていました。隣町の長田では大火となり、出動すれど水はどこからも一滴も引けず、消防士さん達は無念の思いで罵声に耐え、人が中に居る家々が炎に包まれるのを見つめるしかなく、男泣きしました。

私の見聞きしたほんの一部のことを書いてみました。今後も巨大地震は必ず起きます。だからこそ得た教訓を活かさなければ災害に強い町や人が育ちません。報道で観るよりも何倍も恐ろしいナマの現場で神戸のあちこちを見た経験から、自分で出来ることはやっておくべきだと痛感しています。「津波てんでんこ」という言葉があるように、どんな地震からも自力で逃げ切るために、可能な準備はすべてしておきたいものです。家具は大丈夫ですか。家は倒壊しませんか。寝る時には緊急時に持参する品物が入ったカバンやリュックを置いていますか。靴はかならず入れておいてくださいね。玄関が潰されたりふさがれることがあり、裸足では災害時に歩くとき危険だからです。しかし水などの保存は玄関に近い場所がいいようです。

都市部で起きた直下型地震が、いかに恐ろしいかということ再認識していただくために敢えて写真の画像を提供されている皆様にリンクをさせていただきました。『1.17』を前に、毎年考えていただければ嬉しいです。両親はその後に病没しましたが、幸いにも私は神戸に住む身内や友人を阪神淡路大震災で失いませんでした。しかし多くの犠牲者が出ました。現在も心身の後遺症に悩む人が多く居ます。それ以来、生活苦を余儀なくされた人も少なからず居ます。どうか今更と思わないでください。これらの画像が、私たち兵庫県人には忘れようがないあの日を思い出させてくれます。そして思い出して備えることが必要かと思います。どうかご覧になって、心の底から恐ろしいと感じてください。あなたには、身を守るために出来ることがまだあるはずです。これを機に防災対策の自己チェックをしてみては如何ですか。(^_-)-☆

◎ 「防災システム研究所様」による教訓・防災写真 

◎ 「前田耕作様」による震災記録写真

◎ 「Hazard lab様」による防災情報

◎ 「阪神淡路大震災1.17のつどい」 (神戸市)

上記の皆様、ありがとうございます。

最後に。以前、この日に際して綴っていた私のページを紹介しておきます。
よろしかったらお読みください。

◎ 『震災追悼集』  (『平成道行考』より) by右近

あしたは神戸まで行ってきます。この震災の犠牲者の皆さん、東日本大震災の犠牲者の皆さん、すべての災害犠牲者の皆さんに手を合わせてまいります。「般若心経」を唱えてまいります。少しの間でかまいません。いつでもかまいません。皆さんも黙祷をしてくださればとても嬉しいです。
相変らず寒いようです。皆さん、お気をつけください。はい、暖かくして行ってきます。ありがとう。

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2013年1月 1日 (火)

謹賀新年

  謹んで新春のお慶びを申し上げます 

旧年中は当ブログへのご訪問、誠にありがとうございました。

わたくしは気まぐれゆえ、本年も気ままに更新いたします。

それでお許しいただければ、どうぞ今年もお付き合いの程、

お顔は見えねども引き続き貴方様とつながっていたく存じます。

この新しき年も皆様がお健やかでありますよう祈念いたします。

                           店主敬白   

 2013年元旦 

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