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2017年5月13日 (土)

『My桜』<その2> (4年目以降2011~2016)

 『平成道行考』 右近的日常 No.42

『My桜』<その2> (4年目以降2011~2016)

『2010年に初めてMyは開花した。その前年、2009年の春に初孫が誕生した。桜も孫も年ごとに成長を見せた。My桜は花の数を年々ふやし、四方へ枝を伸ばした。空に向かって両手をひらき、陽光を存分に吸収し、もっと大きくなるぞと華奢ながら力強さを感じさせ、私に希望を与えてくれた。

 2011年3月11日、東日本大震災が起きた。未曾有の自然災害に、この国だけでなく世界中が驚き悲しみ、多くの犠牲者を悼み、すべてを奪われた人々を思いやった。その年にもMy桜は咲いた。津波によって倒されながらも新芽出した東北の桜をニュースで知り、感動した。私は依然として在宅での支援活動に明け暮れていた。この年の6月、2人目の孫が生まれた。

 2012年1月、24歳5ヶ月を生きた猫が逝った。別の可愛がっていた猫が重い腎不全だと知り落胆した。引き続き猫の介護に精を出し、支援活動を継続した。東北のあちこちの人々と知り合い、報道では伝えられない悲惨さや大変さを生の声で知らされ、心を痛めては孤独な活動に力が入った。7月、3人目の孫が生まれた。

 2013年、猫の看護に明け暮れた。何をしてもやせ細っていく愛猫に気の重い日々が流れた。翌2014年2月、その猫が逝った。悲しみから立ち直れない中、6月に4人目の孫が生まれた。また、この年の秋頃から隣家の嫌がらせが始まり憔悴する。そんな中、2009年にガンを発病した兄を見舞いに何度も神戸まで通っていた。悲しみと喜びと心配と、さらに嫌がらせのストレスなどが綯い交ぜになり、私の疲労感は蓄積され、この年の9月に体調を崩して入院を余儀なくされた。

 2015年、ガンで闘病中の次兄が終末期に入った。もう長くないと周囲も本人も理解し、できるだけ兄に会うべく無理をして何度も神戸に通った。彼の闘いはすでに6年目に入っていた。余命宣告も受けていたが、それ以後も彼の生への執着には並々ならぬものがあった。来たるべき死を受容し、痛みを和らげるための薬で殆ど眠る毎日となった。その年の12月半ばに兄は召された。もっと早く神戸に居場所を持ち、兄を何度も見舞えばよかったと悔やまれた。

 一方、嫌がらせは 隣家だけでなく斜め向かいの家も加勢して2軒の迷惑行為はエスカレートし、家に居られずたびたび神戸のマンションに避難した。私が庭へ出るとわざと大きな騒音をたてて威嚇するのでMy桜をゆっくり楽しむこともできなかったが、写真だけは撮り続けた。いま思い出しても吐き気を覚えるほどにその頃の苦しみは尋常ではなかったが、植物可愛さに、どんな嫌がらせにも耐、私はレコーダーと携帯電話をポケットに忍ばせて黙々と可愛い植物たちに水やりを続けた。嫌がらせの種類は徐々にふえ、信じがたいものや滑稽なものまで登場し、まるでホームドラマだなと思ったり、これはそのまま事実を書いてもじゅうぶんに面白い小説が出来そうだなどと考えることもあった。

 2016年3月、猫を連れて冬を神戸で過ごしていた私は帰宅した。依然として迷惑行為を続ける隣家に対し、これ以上は我慢できないと思い、隣家に出向いて和解した。約2年半の間、弁護士さんに相談しながら闘ったが、馬鹿らしくも低俗な行為を受けることに終止符を打った。私に全く非は無いから出向けたのだ。非のある先方はしらばくれ、とぼけて何ひとつ謝罪の言葉は出さなかった。私が庭へ出ると急いで出てきてバケツをガンガン叩き、脚立やもの干し竿をくり返し倒しては大きな音をたてた。それ以外にも数々の嫌がらせを毎日の日課としていた隣家の妻に私は人間の醜さと愚かさを存分に見せてもらった。もう、やっていられない。そう思ってみずから出向いて収束させた日、家に戻って庭を見るとMy桜が微笑んでいた。

 「よかったですね。やっと終わりましたね。偉かったです。私は知っていましたよ。愚かな人たちの悪事をここから毎日、見おろしていました。かれらを赦したあなたはひとつ大きな人間になれました。」

 My桜がそう言ったような気がした。何が私の背中を押したのかは判らない。恐らく仏教の教えが力となっていたのだろう。神戸から帰宅してすぐにまたプラゴミを燃やす強烈な異臭に耐えきれず出向いたのだ。春になっても迷惑行為の数々は何も変わっていなかった。私にも普通に暮らす権利がある。そんなことは嫌だとハッキリ言える自分になった。私の暮らしを真正面から365日ながめていた桜は2017年に10歳になる。十年もの間、黙って私の一日を見守り、一年を身守り、桜は成長を続けてきた。思い出しても胸が悪くなる執拗な嫌がらせをする輩とは対照的な桜の存在は、まさに菩薩であり、苦しい時期に常に心の支えとなってくれた。

 しかし、せっかく成長を遂げつつあった愛しい桜の木を移設しなければならない事情が起きてしまった。ガレージを増設する工事と同時におこなった裏庭の工事で、危険が生じていることが判ったのだ。敷地の外にあるノリ面にガレージ工事で生じた残土を埋めた工事は、ブロックを13段も積まれており、10年の間に土砂が押されてブロックに圧力をかけて塀が前に傾いてきたのだ。そのため小さな地震が起きるたび、ブロック塀が崩れないかと心配でたまらなかった。それに気づいた近所の人にも指摘され、もしや人様に危害を与えてはと考えると、夜も眠れないことがあった。庭の業者さんは工事の専門知識を持っていなかったことをあとで知り、後悔したがすでに遅かった。

 専門家に見てもらうと無茶な工事だと唖然とした。ブロック塀は法定で7段までと決められていることも教えてくれた。その倍近くを積み、更に土の圧力が加わって、完全に塀の上部が前へせり出している状態になっていた。地震が起きなくても突然にブロック塀が崩れることを思い描くと居ても立ってもいられなくなった。施工した庭の業者さんと相談の上、出来るだけ土を掻き出し、塀にかかる圧力を減らすことになった。そのためMy桜の移設が必要となってしまったのだ。土の圧力に加え、桜の成長による根が与える圧力もあると考えられ、移設は必須と判断した。

 樹木の移設をする時は枝を殆ど払ってしまい、根や幹にかかる負担を軽減することはテレビで観て知っていた。方々に枝を伸ばし、大きくなりかけた時にMy桜を丸刈りに近い状態にしてしまうことは忍びないことで、私の落胆は大きかった。しかし事故が起きてからでは遅い。工事のやり直しに際しての移設は、やむを得ないことだと自身に言い聞かせて決断を下した。かならずや再び復活してくれるものと信じての決断であった。』    (続く)  2017/5/13    (6枚半)

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