ひとり言・右近的日常

2017年5月31日 (水)

‘右近のひとり言’『My桜』< その3>(再生へ 2016年12月~2017年5月)

‘右近のひとり言’右近的日常 No.43

My桜』 <その3>(201612月~20175) 

釧路で桜の開花宣言が出て何週間かが過ぎた。開花宣言としては最北だとニュースで知り、これで桜前線は昇りつめたと思った。今頃は若葉が元気に出てきた頃だろうか。 

 2016年のクリスマス・イヴ、私は朝から落ち着かなかった。その日は裏庭の桜が庭に移設される日だった。前日に移説する準備をした業者さんが作業を終えて帰ったあと、恐る恐る裏庭へ行った。目を疑う光景がそこにあった。広がっていた桜の枝が殆ど切り落されて無くなっていたのだ。哀れな姿のMy桜が寒そうに震えていた。私は絶句し、伐られた枝が積み上げられて山となった所に目をやった。かなり枝を払うとは聞いていた。樹木の移設の際にはそうするという知識は私にもあった。だが、いざその姿を目にすると衝撃は大きかった。四方八方に枝を伸ばして花の量をふやしていただけに、落胆はかなりのものだった。私はしばらく哀れな姿になった桜を茫然と眺めていた。
 
 翌日、ついに移設の日を迎えた。
4人の男性がやって来た。賑やかに明るい声が聞こえてきた。時おり笑い声も聞こえてくる。私は心労から体調が下降していたので、挨拶も失礼してベッドに居た。まるで大切な人の大手術でも待っているような心地だった。さして時間はかからず、移設はほどなく終わった。午前11時前、ガレージを出る車の音が聞こえた。私は飛び起きてカーテンを勢いよく開けた。
 
 ハナミズキの隣に
My桜は恥ずかしそうに立っていた。じわりと涙が目の中に行き渡った。つらかったね。頑張ったね。これからは庭で毎日お話しができるよ。裏庭より私や猫、ほかの植物たちの暮らしがよく見えるよ。ようこそ庭へ!これからはもっと君を大事にするからね。私はMy桜を励まし続け、私も裸ん坊のMy桜に励まされていた。

 1月から3月にかけ、冬空の下、けなげに立っているMy桜を毎日見上げた。見上げるほどの高さは無いが、そばに立って語りかけた。早く蕾を付けて欲しいと強く願って私は念じた。1月には積雪の中を頑張り、2月の極寒にも耐え、3月半ばを過ぎた頃、堅く小さな蕾が付き始めた。根は無事に定着したことがわかった。次の心配は花が開くかどうかだった。きっと開く。必ず咲く。私は信じて祈った。すると3月末、堅かった蕾が仄かな桃色を帯びてふくらみはじめた。これは咲くと確信した。

 そして46日、開花宣言をするに至った。私は猫とほかの植物たちに向けて開花の通知をした。五つほどの花が開いたのを私は夢中でカメラに収めた。胸が躍るとはこのことだった。ちっぽけで貧相な桜の木に咲いたわずかな桜に私はいたく感激し、庭の仲間たちと共に喜んだ。ウグイスも祝福の声を朗々と聴かせてくれた。

 その後、強風の日が続き、花はほどなく散ったが、同時に元気な若葉が次々に出てきた。強いと聞いていた桜は、やはり強かった。もう大丈夫だ。あとはまた、一年ごとに枝を伸ばして花をふやし、十年後には再び昨年ほどの花が付くようになってくれれば嬉しい。だが十年後、私は生きているのだろうか。ふとよぎったのはそのことだった。

 生きていなければならないと思った。マゴの成長を見るよりも痛切に、私は桜の成長を見届けたいと思ったのだ。マゴたちには両親が居る。桜の苗を買った責任、植えた責任、移設した責任が私にある。生きる具体的な理由が出来、何としてもあと十年は長く生きたいと私は初めて真剣に願った。

 その頃、今そばにいる可愛い猫はもう居ないだろう。私がそれまで生きられたとしても病気は更に進み、不自由な暮らしをしていることだろう。もしかしたら家には居ないかもしれない。施設だか病院だかに居る可能性もある。十年先のことは誰にも判らない。判らないが、そこまでは何が何でも生きなければという明確な目標が初めて与えられた。これは素晴らしいことだ。また植物に私は助けられたのか。生きる目標を与えてもらって。

 私に与えられた残りの時間は人生の仕舞い支度に費やし、思い出を整理したり処分したり、書き遺すべきことをしたためるなどし、成すべきことををひとつずつ進めていかなければならない。それが大切な最後の私の仕事である。その過程でMy桜の成長を年ごとに喜べたらこんなに嬉しいことはない。私の終活が桜の成長と共に進んでいくことを願わずにはいられない。

 日常生活で殆ど人様と関わらない暮らしをしている私にとって、猫や他の生きものたち、植物たちが与える歓びは計リ知れない。生きものも植物も言葉で何も語らない。語らずしてかれらは凄い世界を私に披露してくれる。ニンゲンの私は学ぶことばかり、教えられることばかりの毎日だ。その恩に応えることはおもいきり愛することしかない。これからも縁のあった生きものや植物に最大の敬意を払いながら共に生きていこうと思う。

 頑張れMy桜。さぁ、再スタートだ。君の十年後の成長した姿を見るのが楽しみだ。それまでは死ねない。  2017/5/31     (5枚)


それでは昨年のMy桜、今春のMy桜をご覧ください。

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2016年春   花をたくさん付けたMy桜。密に花が付いていた。

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離れて見ると若さが目出つ。枝の先までは花はまだ付いていなかった。

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裏庭に立つMy桜。その向こうには大きなヒマラヤスギがあり、棚田が広がっている。人工的なものが何も見えない絶景。そんな場所にMy桜は立っていた。


以下は移設されて以後のMy桜。けなげに頑張っている様子をご覧ください。

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2017年3月 蕾が色づいてきた頃。蕾は少なくても、いかにも春の訪れを喜んでいる様子。

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花だけ写すと何も変わらない姿が思い出される。頑張ってるよね。可愛いね。

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これで満開。すべての蕾が開いてめでたしめでたし。これでも満開。誉めてあげた。

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そして若葉の季節へと。まるで泳ぐみたいに風になびいて君達いつも楽しそうだね。

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今日は五月の最終日。若葉はもっと茂っています。My桜は庭で仲間と共に、とっても元気です。ご安心ください。(^_-)-☆        

                                   このシリーズ「完」


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2017年5月13日 (土)

『My桜』<その2> (4年目以降2011~2016)

 『平成道行考』 右近的日常 No.42

『My桜』<その2> (4年目以降2011~2016)

『2010年に初めてMyは開花した。その前年、2009年の春に初孫が誕生した。桜も孫も年ごとに成長を見せた。My桜は花の数を年々ふやし、四方へ枝を伸ばした。空に向かって両手をひらき、陽光を存分に吸収し、もっと大きくなるぞと華奢ながら力強さを感じさせ、私に希望を与えてくれた。

 2011年3月11日、東日本大震災が起きた。未曾有の自然災害に、この国だけでなく世界中が驚き悲しみ、多くの犠牲者を悼み、すべてを奪われた人々を思いやった。その年にもMy桜は咲いた。津波によって倒されながらも新芽出した東北の桜をニュースで知り、感動した。私は依然として在宅での支援活動に明け暮れていた。この年の6月、2人目の孫が生まれた。

 2012年1月、24歳5ヶ月を生きた猫が逝った。別の可愛がっていた猫が重い腎不全だと知り落胆した。引き続き猫の介護に精を出し、支援活動を継続した。東北のあちこちの人々と知り合い、報道では伝えられない悲惨さや大変さを生の声で知らされ、心を痛めては孤独な活動に力が入った。7月、3人目の孫が生まれた。

 2013年、猫の看護に明け暮れた。何をしてもやせ細っていく愛猫に気の重い日々が流れた。翌2014年2月、その猫が逝った。悲しみから立ち直れない中、6月に4人目の孫が生まれた。また、この年の秋頃から隣家の嫌がらせが始まり憔悴する。そんな中、2009年にガンを発病した兄を見舞いに何度も神戸まで通っていた。悲しみと喜びと心配と、さらに嫌がらせのストレスなどが綯い交ぜになり、私の疲労感は蓄積され、この年の9月に体調を崩して入院を余儀なくされた。

 2015年、ガンで闘病中の次兄が終末期に入った。もう長くないと周囲も本人も理解し、できるだけ兄に会うべく無理をして何度も神戸に通った。彼の闘いはすでに6年目に入っていた。余命宣告も受けていたが、それ以後も彼の生への執着には並々ならぬものがあった。来たるべき死を受容し、痛みを和らげるための薬で殆ど眠る毎日となった。その年の12月半ばに兄は召された。もっと早く神戸に居場所を持ち、兄を何度も見舞えばよかったと悔やまれた。

 一方、嫌がらせは 隣家だけでなく斜め向かいの家も加勢して2軒の迷惑行為はエスカレートし、家に居られずたびたび神戸のマンションに避難した。私が庭へ出るとわざと大きな騒音をたてて威嚇するのでMy桜をゆっくり楽しむこともできなかったが、写真だけは撮り続けた。いま思い出しても吐き気を覚えるほどにその頃の苦しみは尋常ではなかったが、植物可愛さに、どんな嫌がらせにも耐、私はレコーダーと携帯電話をポケットに忍ばせて黙々と可愛い植物たちに水やりを続けた。嫌がらせの種類は徐々にふえ、信じがたいものや滑稽なものまで登場し、まるでホームドラマだなと思ったり、これはそのまま事実を書いてもじゅうぶんに面白い小説が出来そうだなどと考えることもあった。

 2016年3月、猫を連れて冬を神戸で過ごしていた私は帰宅した。依然として迷惑行為を続ける隣家に対し、これ以上は我慢できないと思い、隣家に出向いて和解した。約2年半の間、弁護士さんに相談しながら闘ったが、馬鹿らしくも低俗な行為を受けることに終止符を打った。私に全く非は無いから出向けたのだ。非のある先方はしらばくれ、とぼけて何ひとつ謝罪の言葉は出さなかった。私が庭へ出ると急いで出てきてバケツをガンガン叩き、脚立やもの干し竿をくり返し倒しては大きな音をたてた。それ以外にも数々の嫌がらせを毎日の日課としていた隣家の妻に私は人間の醜さと愚かさを存分に見せてもらった。もう、やっていられない。そう思ってみずから出向いて収束させた日、家に戻って庭を見るとMy桜が微笑んでいた。

 「よかったですね。やっと終わりましたね。偉かったです。私は知っていましたよ。愚かな人たちの悪事をここから毎日、見おろしていました。かれらを赦したあなたはひとつ大きな人間になれました。」

 My桜がそう言ったような気がした。何が私の背中を押したのかは判らない。恐らく仏教の教えが力となっていたのだろう。神戸から帰宅してすぐにまたプラゴミを燃やす強烈な異臭に耐えきれず出向いたのだ。春になっても迷惑行為の数々は何も変わっていなかった。私にも普通に暮らす権利がある。そんなことは嫌だとハッキリ言える自分になった。私の暮らしを真正面から365日ながめていた桜は2017年に10歳になる。十年もの間、黙って私の一日を見守り、一年を身守り、桜は成長を続けてきた。思い出しても胸が悪くなる執拗な嫌がらせをする輩とは対照的な桜の存在は、まさに菩薩であり、苦しい時期に常に心の支えとなってくれた。

 しかし、せっかく成長を遂げつつあった愛しい桜の木を移設しなければならない事情が起きてしまった。ガレージを増設する工事と同時におこなった裏庭の工事で、危険が生じていることが判ったのだ。敷地の外にあるノリ面にガレージ工事で生じた残土を埋めた工事は、ブロックを13段も積まれており、10年の間に土砂が押されてブロックに圧力をかけて塀が前に傾いてきたのだ。そのため小さな地震が起きるたび、ブロック塀が崩れないかと心配でたまらなかった。それに気づいた近所の人にも指摘され、もしや人様に危害を与えてはと考えると、夜も眠れないことがあった。庭の業者さんは工事の専門知識を持っていなかったことをあとで知り、後悔したがすでに遅かった。

 専門家に見てもらうと無茶な工事だと唖然とした。ブロック塀は法定で7段までと決められていることも教えてくれた。その倍近くを積み、更に土の圧力が加わって、完全に塀の上部が前へせり出している状態になっていた。地震が起きなくても突然にブロック塀が崩れることを思い描くと居ても立ってもいられなくなった。施工した庭の業者さんと相談の上、出来るだけ土を掻き出し、塀にかかる圧力を減らすことになった。そのためMy桜の移設が必要となってしまったのだ。土の圧力に加え、桜の成長による根が与える圧力もあると考えられ、移設は必須と判断した。

 樹木の移設をする時は枝を殆ど払ってしまい、根や幹にかかる負担を軽減することはテレビで観て知っていた。方々に枝を伸ばし、大きくなりかけた時にMy桜を丸刈りに近い状態にしてしまうことは忍びないことで、私の落胆は大きかった。しかし事故が起きてからでは遅い。工事のやり直しに際しての移設は、やむを得ないことだと自身に言い聞かせて決断を下した。かならずや再び復活してくれるものと信じての決断であった。』    (続く)  2017/5/13    (6枚半)

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2017年4月11日 (火)

『水無月右近のひとり言』復活!

HP『平成道行考』で皆様に可愛がっていただきました懐かしいコーナーの再開です。

『水無月右近のひとり言 No.2』を此処で続けます。長らく休筆しましたが、よろしかったら同道を。

 

『平成道行考』 右近的日常 No.41

『My桜』  <その1>  (最初の開花まで ‘2007~2010’)

  裏庭に桜の苗木を植えたのは2007年、今から10年前のことだった。近所のホームセンターで50㎝程の背丈の細い苗は値段がわずか880円だった。ソメイヨシノである。いつか広い庭を持ったなら、桜の木を植えたい。遅ればせながらこの願いが叶い、裏庭に植えた。その時、此処に住んで15年にして「自宅に桜がある暮らし」の実現に夢がふくらんだ。

 住んですぐに植えなかったのは、入居後に元あるじが洋風の庭にしたからだ。広いばかりで荒れた土地に彼は芝を敷き詰め、煉瓦で花壇を造るなど好みの庭作りに精を出した。庭に桜の木を植えることは全く頭になかったようだ。桜は見に出かけるものと捉えていたのかもしれない。そんなこんなで「自宅に桜」の夢は何となく潰えて諦め、月日が経った。

 この年に庭の裏側にあるノリ面の下部から塀を建てることになった。防犯上の理由である。ノリ面をくだった所に巾1メートルほどの遊歩道がある。そこから駆け上って庭へ侵入し、空き巣に入られそうになったことが数回ある。幸い鉄線の入った厚いガラス戸は砕けずに賊は侵入できなかった。あるじ亡きあと防犯面の不安がいっそう募り、危険と思われる窓すべてに面格子を取り付け、鍵を頑丈にするなどの工事を施した。しかし最も恐れていた裏の遊歩道からの侵入を防ぐ対策ができていなかった。ノリ面は市の所有のため申し出て対策をくり返し交渉した結果、自費での防犯工事が認められた。その時ガレージを増設する工事も併せて庭メンテ業者さんに依頼した。そしてノリ面の下部に高いブロック塀を建て、ガレージを造る際に出る残土をノリ面に埋め、その上に正土をかぶせて裏庭が完成した。ようやく防犯上の不安が無くなり、同時に裏庭も出来た。 

 その裏庭は横幅が庭と同じで長く、R型をした素敵な庭だった。縦の長さは最大で3メートル以上あり、すぐにでも長い畝を作って野菜作りが楽しめそうだった。最初は三列の畝にサツマイモを植えた。ふと思いついたのが桜の植樹だった。夢を実現させるべく店に出向いて苗を購入し、心を弾ませて裏庭の隅に赤ん坊の桜の苗木を植えた。植えた当時、果たして育つのやらと半信半疑であった。幸い裏庭は乾燥し過ぎることもなく、土が乾くとフェンス越しに庭から時たまホースで水をやり、特に施肥もせず見守るだけであったが、桜は背丈を伸ばし始めた。泣くばかりの赤ん坊からハイハイする赤ちゃんになり幼児になった。小学校に入学し、低学年から中学年、高学年へと成長した。しかし度の春、花が咲くかと期待するも一輪も咲かなかった。 

 20104月、三度目の春にMy桜は待望の花を付けた。この時の歓びは忘れられない。心が躍るとはあのことだ。身も心も躍らせて最初の開花を祝った。パソコンに残る20104月の画像フォルダに花を付けた細い桜の木が何枚も保存してある。起きると毎朝カーテンを開けて桜を見た。まばらな花は愛くるしく、懸命に咲いてけなげであった。元あるじが逝って6年。彼岸から眺めて喜んだかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。この桜の開花はこれまでの私の生涯で最も嬉しかったことのベスト3に入る出来事であった。

 それ以後My桜は年ごとに花をふやす。冬の間から蕾の様子を入念に観察し、ふくらみ始めた頃から開花を楽しみに待った。春。気づけば近隣のみごとな桜見物に行かなくなった。車から眺めてひとつひとつに「今年も綺麗だよ」と声をかけるのは同じだが、市内や大阪市にある立派な桜の名所に特に行きたいと思わなくなってしまった。

 20104月。私は毎日カメラを向けた。細い幹に細い枝。思春期に開いた花の付き方はまばらであったが花の集まる部分はなかなかのものであった。撮っては眺め、私は頬をゆるませた。この年以後、桜はMyonlyになった。東日本大震災の前年のことである。  (続く)        2017/4/11 記    (4枚)   

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植えてから約1ヶ月後のMy桜。成長の速さに驚く。メンテ業者さんが支柱と猫よけ対策をしてくださった 。2007/5月に携帯で撮影                                                                

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まだ細い幹は年もと近くから枝分かれをし、それぞれの枝に花が付いた。初めての開花に心が躍った。2010/4月

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伸びたい方向に、のびのびと好きに伸びていた三歳になった桜。 やんちゃ盛りのMy桜。2010/4月

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幹も枝も幼いが、幼さは溌剌として、元気いっぱいの明るい笑顔だ。 この子たち六年生くらいかな。2010/4月

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